
普通恩師と言うと、大学なんかで最後に教わった先生辺りを言うんじゃないかと思うが、
私にとっての恩師は、壱岐の小学校で、五年、六年を教わった、
郷里の歴史学者の故中上史行先生だ。
学問や児童達への海山空のような愛情と誠実の生涯を歩まれた。
先生の教え子である私の小学校の出身者は皆、
中学で、世界地図、日本地図をソラで画けたので、
他校の出身者は驚いたものだった。
と言うのは、先生の社会の授業の後半は、
教科書を閉じて、自由質問の時間だったのだが、
例えばベトナムのことを聞くと、
黒板にサラサラと正確無比なベトナムの地図を画いて
色んな話をして下さった。
皆それに憧れて、先生の字、先生の博学を真似たのだ。
遠くの他校での合宿明けの日には
ホンダのベンリー号だろうか、バイクで迎えにきて下さって、一人一人の児童を背に乗せて何往復もして下さった、あの背中。
兄弟の中でも一番勉学に不熱心なボンクラで、
教科書もノートもテストの裏も、絵の落書きで真っ黒な、
ほんとに先生不孝な私だったが、
成人の日の同窓会で「心配ばかりお掛けして済みません」というと
「ミッちゃんの事だけは何にも心配してなかったよ」と仰った。
斯様に全ての子供たちの特徴をすべて大切な苗のように扱って下さった。
その信頼があって私も自分の特徴を、信じて根気よく歩く事を得た。
その恩師が郷土の何冊目かの歴史研究書を出版される時に、
思いがけず表紙や挿し絵を描かせて頂く光栄を得た。
あの、散々先生を困らせたその落書きでもって
先生に初めて、教え子としての孝行の機会を得た訳だ。
ご著書は「壱岐の風土と歴史」といって、
イザナギ、イザナミが暁光の雲上から壱岐の島を御産みになる所を表紙に描いた。
十数年前のことだが、間に合って恩返し出来て良かったと思う。
この話は私が掲示板を初めて持った頃にも書いたが、
今日そのことを書いたのは、先生の奥様から年賀状の同封されたお手紙を頂戴したからだった。
私からの賀状にあった「府中市」と言う所書きと
「谷保天満宮」の絵を観て、先生ご夫妻のお若い頃を思い起こされたのだそうだ。
奥様は小金井市で戦前戦後を過ごされ、
先生は当時小平、東村山に赴任、
国立から谷保天満宮までの道を良く一緒に歩かれたのだそうな....
壱岐にある故恩師ご夫妻の若い日の想い出が
一杯詰まった辺りに、半世紀後の教え子の私が住んでいて、
それと知らず懐かしい風景の絵のついた年賀状を
遠い壱岐の島に送る...
思い掛けなかったのは私もそうだが、
生前の先生によく似た字で
青春時代を想い出させてくださってありがとう、
今年十三回忌の中上史行の仏前に
「中島君を見守って下さいね」と賀状を供えました、
...と。
奥様だけでは無かった、
私の方にもその懐かしさが共鳴して
故里の自分の少年時代の事、
ご夫妻の色んな時代の面影や、
一緒に歩かれたであろう大学通りの並木道のセピアの絵が
ないまぜにあふれてあふれて堪らなかった。
大慌てだったけど
あの絵にして遅ればせの年賀状、書いて良かった。
やっぱり年賀状っていい。
ありがとうございます。

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