「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル26」
東京府会員

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岡 五郎 (おか ごろう)
(写真出典:『日本之小学教師』第3号)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員。明治21(1888)年1月、大日本教育会に初めて入会し、明治26(1893)年まで名簿に名を連ねた。明治25(1892)年6月、評議員に当選、初めて大日本教育会の会務に携わることとなった。ただ、明治26年4月には宮城へ赴任することとなり、以後しばらく会務から離れた。この間、一時退会している。明治31(1898)年、再び評議員に当選、昭和3(1928)年に没するまで歴任した。明治34(1901)年11月、終身会員となっている。また、明治31年に幹事、明治32(1899)年から明治40(1907)年まで参事、明治40年から大正8(1919)年まで財務監督、大正8年から12(1923)年まで主事を務め、辻・沢柳会長期の帝国教育会の実務を担当し続けた。この間、学制調査部や公徳養成に関する参考書編纂委員会などに参加し、帝国教育会の教育改革案の立案にも一定の役割を果たしている。
安政2(1855)年生〜昭和3(1928)年没。文部省視学官。越前大野藩士の末子として生まれる。文久2(1862)年、藩校・明倫館に入って素読を学び、そのかたわら寺子屋にも通った。慶応3(1867)年からは道場に通って武道に励んだ。明治2(1879)年、藩の命にて大野明倫館で漢学を学んだが、明治4(1871)年の廃藩置県による明倫館の廃校後は、蝋燭の芯巻き、煙草切り、筆耕、小学校授業生をしながら苦学を続けることとなった。明治7(1874)年には福井県師範学校変則生となって英学・数学を研究したが、在学三ヶ月にして家命によって力役に就かざるを得なかった。明治8(1875)年5月、官立愛知師範学校に入学、明治10(1877)年2月に同校小学師範科を卒業した。同年3月、上京して麹町区清水小学校訓導を務めながら、芝山内の薫陶舎にて英学を学んだ。同年5月には千葉県舞鶴小学校長となって同校の改革を行い、7月(8月?)には茂原中学校教師に転じた。さらに、同年10月、官立東京師範学校に入学、明治15(1882)年2月に同校中学師範科を卒業した。岡の在学中には、アメリカの師範教育を調査して帰朝したばかりの伊沢修二や高嶺秀夫が同校教育に従事しており、岡もその指導を受けたことだろう。また、同期の卒業生には野尻精一がいた。
明治15年3月、徳島県師範学校一等教諭に任じられた。その年俸は、校長の年俸の約2倍、首席教諭のそれの約3倍という破格の待遇であった。同年6月には徳島県学校規則および教員学力検査法などの調査を始めた。また、徳島県では毎年一回県内児童の奨励試験を施行していたが、岡はこの機会に小学校教員を「覚醒」させようとして試験問題の発問を工夫したという。なお、当時の徳島師範では、教員が心理学・博物学・学校管理法・体操などの学問・教科を知らないという状態であった。岡は、徳島の学事改革を行いつつ、それらの教科に加えて教育学を担任し、かつ附属小学校の監督・教務をも務めるという激務を2年間続けた。附属小学校には県内各郡から参観にくる教員が増えるとともに、教員を師範学校へ講習に行かせる郡もあった。明治17(1884)年6月には、連合府県学事会へ参加した。明治18(1885)年1月には徳島県御用係・学務課学事係を兼任、同年9月には徳島県中学校一等教諭も兼任した。徳島では多数の教科書・教授法書を編纂・校閲しており、山田邦彦編『うゐまなび』(校閲、明治17年、読書入門として仮名・単語・連語を学ばせる県学務課編の教科書)、河野通直・資延茂編『小学珠算例題』(校閲、明治17年)、岸升一郎・松井精義編『小学珠算教授書』(校閲、明治18年)、岡五郎・梅村次修編『小学授業法』(共編、学務課から出版、明治19年、)を出版した。
明治19(1886)年7月、高等師範学校助教諭を命じられて上京し、同校附属学校主任をも務めた。同年12月に『小学読本』巻一の編纂審査委員、明治20(1887)年6月に小学校教科用地理書編纂趣意書審査、同年10月に小学簡易科教科書編纂趣意書審査委員、明治21(1888)年3月に小学簡易科読書教授書・読方作文教授掛図審査委員を務め、様々な教科用教材の編纂・審査に従事している。明治20年12月、高師教諭に昇進した。明治23(1890)年4月、女子高等師範学校教諭に転じ、附属高等女学校・附属小学校主任を務め、10月には同校教授となった。明治24(1891)年8月には文部省普通学務局に兼勤、同年9月には高等師範学校書記兼教授となり、10月には文部省普通学務局第一課長に専任となった。明治26(1893)年3月、文部大臣官房図書課兼勤となる。明治26年4月、宮城県尋常師範学校長に着任した。宮城師範時代の岡は、「師範の実績は教務・附属校務及び舎務の三方面の能率に俟つ」と述べていたとされ、師範学校運営の効率化に尽力した。
明治30(1897)年10月、実際経験に富む師範・中学校長を抜擢して文部省視学官を置くこととなり、岡はその一人に抜擢された。明治31(1898)年11月には普通学務局勤務となり、明治32(1899)年5月には師範学校学科程度取調委員を務めた。同年6月、東京府視学官兼文部省視学官および東京府内務部第三課長となった。明治34(1901)年10月には高等教育会議議員を務め、かつ正六位に叙せられた。この後、明治38(1905)年1月と明治39(1906)年9月にも高等教育会議議員を務めている。明治38年4月、府県視学官の廃止に伴って東京府第二部長となり、同年8月に文部省視学官を兼任することになった。明治39年7月、南満州の戦跡見学のため自費で視察、帰京後には東京府参事会員をも務めた。明治40(1907)年2月、病気のため依願免本官・兼官となる。
退官後、帝国ホテルやホテルオークラなどの事業を手がける大倉家(大倉組)に嘱託され、同家の庶務雑務を掌った。この間、北海道・台湾・朝鮮・満州を視察している。後には大倉製糸工場取締役・東海紙料株式会社監査役を務め、大正7(1918)年には大倉組参事になっている。大正10(1921)年、大倉組参事を辞め、引退した。引退後は和歌会を催したり、各地へ旅行して旧蹟および旧友や教え子を訪ねて回った。
岡は、茗渓会など民間団体でも活躍している。明治19年7月、高師教員となった際に、茗渓会委員・主事となった。明治31年9月にも再び茗渓会委員・主事に就任、同職を歴任した。明治44(1911)年10月には、東京高等師範学校創立四十周年記念にあたって「母校へ望む」を論じ、高等師範学校専攻科を設けて、同科終了生に教育学士を与える案を提案している。明治26年9月には日本赤十字社正社員に列し、明治38年5月には同社東京支部幹事となった。明治31年12月には旧藩主土井子爵家の顧問も務めた。その他、東京市教育会、帝国軍人後援会などにも関わった。
岡は、苦学して官立愛知師範・東京師範を卒業し、教育令・小学校令期の徳島で師範学校教育・改革および小学教育の内容・方法の改良に携わり、ついに高等師範学校へ入った。高師・女高師教員を経て、視学官として日本教育・東京府教育の改良に携わった。この間に行われた大日本教育会・帝国教育会における岡の活動は、高師教員・視学官としての教育改良活動を補完するものだったのかもしれない。『岡五郎伝』にいわく、その人物評価は「即ち資性穎悟、且つ質直にして飾らず、人と接するに城壁を設けず一見旧知の如く、肝胆相照す。加うるに実際教育上の経験に富み、又事務の手腕あり」とある。岡は現場たたき上げの教育経験豊かな能吏であり、その経験・能力・立場を最大限に発揮して、日本の教育を改良していったのであろう。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
岡吉寿編『岡五郎伝』立平衡、1938年。

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