「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル21」
東京府会員

ファイル21:
根本 正 (ねもと しょう)
(写真出典:栗原亮一『茨城県第二区衆議院議員候補者根本正君略伝』高知堂、1898年)
帝国教育会東京府会員。明治32(1899)年11月、第16回総集会において、初めて評議員に選挙された。以後、昭和2(1927)年まで評議員を歴任した。入会年は不明であるが、大日本教育会の名簿にはその名を確認できないため、明治29(1896)年〜明治32年の間に入会したと見られる。明治42(1909)年から昭和2年まで、評議員会副議長を務めている。また、様々な委員を引き受け、帝国教育会の事業計画・運営を支えた。例えば、明治34(1901)年3月から4月にかけては、第3回全国連合教育会に対する文部省諮問の公徳養成問題について、後藤牧太・湯本武比古とともに調査委員を務め、帝国教育会提出原案の作成に関わっている。
嘉永4(1851)年生〜昭和8(1933)年没。衆議院議員。常陸国東木倉村の村役人の家に生まれた。祖父・半次衛門に読み書きを習い、万延元(1860)年には神職・佐川伊予之介の塾に入って漢書を学んだ。文久3(1863)年、親族の彰考館総裁・豊田天功の家僕となって水戸学に触れ、翌元治元(1864)年の天功死後にはその息子・小太郎に仕えた。慶應3(1867)年、水戸藩南御郡方役人となった。この頃、上司からパリ万国博覧会の土産としてマッチと時計を見せられ、西洋文明に驚き、英語を学ぶ決心をしたという。明治4(1871)年、職を辞して上京し、蘭学者・箕作秋坪の三叉学舎に入った。また、警視庁羅卒を務めるなか、中村正直訳『西国立志編』に感銘を受けて、中村の同人社に学んだ。明治7(1874)年、神戸の駅逓寮外国郵便局に赴任、かつ京都の宇治義塾(慶應義塾分校)で英語を学んでいる。明治10(1877)年、横浜に転勤したとともに、ヘボンの英学塾へ入門した。明治11(1878)年、プロテスタントの倫理に強い魅力を感じて洗礼し、キリスト者となった。
明治12(1879)年、アメリカに渡り、カリフォルニアで召使いをする傍ら、小学校に通った。明治14(1881)年、ホプキンス中学校に入学、苦学して明治18(1885)年に同校を卒業した。同年、元北太平洋鉄道社長・ビリングスの奨学金援助を受けてバーモント大学に入学、政治学を専攻し、明治22(1889)年に卒業した。この間、ビリングスや学長の紹介で、ハリソン大統領や国務大臣などの政治家に面会している。その後、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアを回って帰国した。
明治23(1890)年、板垣退助から勧誘の電報を受け、愛国公党に入党。党の政務調査官を務め、翻訳書の出版などを行った。この頃、アメリカで無償の義務教育を受けた根本は、熱心に義務教育の無償化を主張し、衆議院・貴族院に「小学校授業料全廃に関する請願」を提出したという。また、東京禁酒会を創立、その副会長となった。明治26(1893)年、外務省と農商務省から海外移民地調査と商工視察とを命じられ、メキシコ・ブラジル・中央アメリカ・インドへ出張し、厖大な調査書をまとめている。
明治31(1898)年、衆議院議員第5回総選挙に自由党から立候補し、立候補3回目で当選した。衆議院議員となった根本は、明治31(1898)年6月、さっそく国民教育授業料の全廃を建議した(未了)。明治32(1899)年1月には、国民に対して無償で普通教育を受けさせるのは国家の義務だとし、小学校授業料全廃を再び建議、ついに可決された。これは、同年2月に憲政本党(大隈秀麿ほか)と憲政党(根本正ほか)から小学校教育費国庫補助法案の提出につながった。両法案は一本化され、衆議院・貴族院での修正可決を経て、同年3月に小学校教育費国庫補助法として成立した。なお、このときの憲政本党の法案は、国立教育期成同盟会をはじめ学制研究会・帝国教育会・同志記者教育同盟会の諸団体が久保田譲の案を軸にして構想したものであった。
根本は、教育費問題に関する建議以後、たびたび衆議院で教育問題を取り上げている。例えば、未成年者喫煙禁止法案の提出(明治32年)、未成年者飲酒禁止法案の提出(明治34年〜大正11年)、普通教育教科書中に憲政要旨を編入する建議案の提出(明治35年)、国定教科書に対する質問(明治36年)、市町村立小学校教員俸給国庫補助の建議(明治39年)、商科大学設立の建議(明治41年〜42年)、ローマ字普及の建議(明治42年)、など多数行った。明治35(1902)年には、貧しく弱い立場であった貧民・労働者・借地人を保護・支援せよと建議している。その他、明治39(1906)年に利根川水害被害状況調査を行い、明治43(1910)年に高層気象観測所設置の建議、明治44(1911)年に水郡鉄道建設の建議、大正7(1918)年に東海村砂防林の植栽など、東関東の発展に寄与した。大正11(1922)年、21年間心血を注いできた未成年者飲酒禁止法をついに成立させたが、内閣改造問題にともなって政友会を脱会。大正13(1924)年、総選挙で落選。過去当選10回、26年間代議士として活躍した根本であったが、ついに政界を引退した。
根本は、いつ帝国教育会に入会したのか不明である。ただし、明治32(1899)年3月8日、根本は、教育費国庫補助法通過を祝う帝国教育会主催の教育祝宴会に出席し、祝詞を述べている。衆議院議員・根本と帝国教育会との関係は、おそらくこの祝宴会、すなわち小学校教育費国庫補助問題の一応の解決を通して深まったのだろう。その後、同年11月に評議員となり、各種の委員を務めて帝国教育会を支え続けることになる。根本が衆議院で取り上げた各種の教育問題は、同時期の帝国教育会でも評議員会などで取り上げられることがあった。帝国教育会で問題となった議題を、根本が衆議院で取り上げることもあった。根本は、帝国教育会と衆議院とを介するパイプ役を務めていたように思われる。根本の教育会活動・議会活動は、帝国教育会を中心とする教育会運動と議会政治との間における連絡関係の存在を示唆するものではないだろうか。
<参考文献>
本山幸彦編『帝国議会と教育政策』思文閣出版、1981年。
根本正生誕150周年記念事業実行委員会編『生誕150周年根本正記念誌』(「根本正顕彰会HP」
http://www.geocities.jp/masuzuki100/syuppann2.html、2008.9.11)
根本正顕彰会編『根本正の生涯―その精神と業績など』(同上)

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