「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル15」
東京府会員

ファイル15:
中川 元 (なかがわ はじめ)
(写真出典:『日本之小学教師』第45号)
大日本教育会東京府会員。明治15(1882)年8月、東京教育学会に入会。翌月、『東京教育学会雑誌』第4号の巻頭に論説「教育学講セザルベカラズ」を掲載させ(『東洋学芸雑誌』掲載分の転載)、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・スイス・フランスの大学で使われていた教育学教科書を紹介した。明治16(1883)年9月までに東京教育学会長となり、大日本教育会の結成を実現させている。大日本教育会結成に際しては、副会長に選任された。ただし、直後の人事上のトラブルにより、会長職を退いた辻新次に副会長の職を譲り、中川は幹事(担当不明)に選任された。その後、明治17(1884)年に審査員、明治19(1886)年に商議委員、明治21(1888)年に議員、明治22(1889)年7月に通俗部門長、同年12月に評議員・参事に選任され、幹部役員を歴任している。明治24(1891)年の名簿までその名を確認できる。明治25(1892)年〜26(1893)年の間に退会したものと思われ、その後再入会することはなかった。
嘉永4(1851)年生〜大正2(1913)年没。文部省官僚・高等学校長。嘉永4(1851)年12月、信州飯田藩の家老の家に生まれた。孫一郎・槐陰と号する。性質温厚、読書を好む。祖父・野村勝弥の感化を受け、朱子学者の渡辺八郎に漢学を学んだ。明治3(1870)年12月、飯田藩の貢進生として大学南校に入学、フランス学を修め、学業優等賞として仏文歴史三冊を受けた。明治5(1872)年5月、大学南校を依願退学。同年8月、司法省明法寮の上級本課に入学したが、明治7(1874)年5月、依願退学した。同年6月、文部省へ出仕、外国語学校に舎長・教諭として勤務した。明治11(1878)年2月、文部省属官として師範学校取調のためフランスへ出発。現地では、パリ万国博覧会に派遣された九鬼隆一の輔手を務め、ベルギーの小学校参観を行って本国に報告している。明治14(1881)年11月に帰国し、明治15年2月に文部二等属官となり、普通学務局に勤務した。
明治15年4月、辻新次大書記官に随行して静岡県の学事を巡視し、現地の自由民権運動の様子を見ている。同年9月には九鬼隆一文部少輔に随行して、新潟・石川両県を巡視した。明治17(1884)年10月、大木喬任文部大臣に随行して栃木・福島・山形を巡回し、学校・県庁・郡役所・病院・監獄所・裁判所・警察署などを視察した。明治18(1885)年同年4月、文部権少書記官となる。なお、同年1月には第1回中学校師範学校教員免許学力試験委員、7月には師範学校条例取調委員・小学校条例取調委員視学官を務めた。同年12月、視学部兼勤・第2地方部長心得となり、翌明治19年3月、視学官となった。明治19年6月、2ヶ月間にわたって第二地方部(東北・北海道)を巡視し、仙台において東北6県の学務課長や師範学校長などを召集して学事諮問会を開催して、諸学校令について趣旨説明や質疑応答を行った。同年11月には東北6県の師範学校を視察し、三気質養成や兵式体操実施状況を視察している。また、明治20(1887)年5月に師範学校職員服制取調委員、同年9月に尋常師範学校経費予算審査委員も務めている。同年10月には普通学務局長第2課長(第2地方部担当の視学官に相当)に着任。9月・11月には宮城・福島の巡視へ出た。このころ、翻訳にも務めて『教育美談 文華之燈』(明治20年)や『修身鑑』(明治22年)を著している。
明治21年5月、視学官心得(第2地方部)・普通学務局第2課長を務めながら、森有礼文部大臣の秘書官となった。同年6月に福島県を巡視、9月には森文相の東北諸県巡視に随行している。森文相の死後、明治22年11月には文部省会計局次長、明治23(1890)年6月には同会計局長・文部省予算説明調査委員、同年7月には教育事業説明資料取調委員、12月には議会交渉事務掛を務めた。明治24年2月には文部省参事官を務めた。第2次小学校令の制定、および第1回帝国議会における予算獲得等の実現に参画したものと思われる。明治24年4月、視学官となって、5月から8月にかけて第2地方部の学事巡視を行った。当時の日記には、教科教育の実情まで記録している。
明治24年10月、第四高等中学校長となって石川県に入った。明治26年1月には、第五高等中学校長となって熊本県に入った。中川は、明治27(1894)年1月、第五高等中学校の教員各位に対して、教育勅語を奉じて切磋琢磨すること、生徒の性質・家族関係などに注意した上で懇切丁寧・実践躬行による子弟関係を結ぶことなどとした教育方針書を提示し、捺印させている。中川は、「エジュケニスト」たる教員を理想の教員とし、技術のみではただの「技芸者」であり、父母の心を体して生徒に当たる教員が最もよいと考えていたようだ。明治27年の教育方針書は、当時免許を必要とせず師範教育を受けていない高等中学校教員に対して、教員としての心得を示したものと思われる。なお、第五高等中学校長在任中には、九州各県の尋常中学校に出張している。また、高等学校医学部への出張も頻繁に命じられており、井上文政による高等学校令の趣旨(高等学校を専門教育機関と位置づけていた)を徹底させることに尽力していたと思われる。
明治33(1900)年4月、第二高等学校長となって宮城県に入った。二高在任中には、高等学校大学予科入学者選抜試験委員や第三臨時教員養成所などの職務にも励んだ。明治43(1910)年3月に仙台高等工業学校長事務取扱、明治44(1911)年1月に仙台高等工業学校長となった。明治45(1912)年4月、官制改革により校長職が廃官となり、かつ同校が東北帝国大学に移管されて東北帝国大学専門部に改編されたのを期に、退官した。大正元年11月、錦鶏間祗候(勅任官待遇、学問に関する宮中資格)となっている。
中川は寡言・朴直・沈着の人で、「堅忍不抜」(森)、「親切懇到を以て終始す」(九鬼)、「謹厳恪勤」(沢柳)などと評価された。体格はよく声も大きく、常に威儀を慎み、身の回りのものは端然と整頓しており、『五高人物史』によると多趣味であったとされ、宴席では詩吟をやり、琵琶で『川中島』などを朗吟し、囲碁・酒を好んだという。視学官在任中には、学事巡視の結果をこまめにメモし、良いところを選んで紹介し、奨励するというやり方をした。その一方で、中川はあまり武芸をたしなまなかったというが、西野文太郎の森文相殺害事件の現場に居合わせた際、西野を斬り倒す剛胆をもっていた。弓術は名人の域に達していたという。また、明治30(1897)年に第五高等学校に御真影が下賜された時には、自ら上京して拝受し、直ちに出発して東京から熊本までの二中夜半一睡もしないで奉持したという。晩年は、釣りや割烹に趣味を見出し、海洋学の翻訳などもやった。
中川は、教育の普及と発展を誠心から願って、教育会活動に参加していたのであろう。なお、中川は、文部省官僚を務めた時期に東京教育学会・大日本教育会で活躍し、高等学校(高等中学校)長を務めた時期に退会して戻らなかった。初等・中等普通教育中心という大日本教育会・帝国教育会の性格をうかがわせる。なお、明治41年12月の帝国教育会創立二十五年記念会で功績記念品を贈呈されており、結成以来の運営に功績が認められた。
<参考文献>
『東京教育学会雑誌』『大日本教育会雑誌』『職員録』
唐澤富太郎監修『図説教育人物辞典』中・下巻、ぎょうせい、1984年。
鈴木博雄編『日本近代教育史の研究』振学出版、1990年。
平田宗文『欧米派遣小学師範学科取調員の研究』風間書房、1999年。

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