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丹所 啓行 (たんどころ ひろゆき?)
(写真出典:東京市富士見尋常小学校編『創立五十周年記念誌』、1931年)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員。大束重善と同様、東京教育会の頃から幹部を歴任した。大日本教育会創立当初から役員として活躍した。明治16(1883)年9月、大日本教育会結成と同時に幹事に選挙され、明治19(1886)年には商議委員に任命された。その後幹部を歴任、明治21(1888)年〜22(1889)年には議員、明治23(1890)年〜26(1893)年には評議員、明治26(1893)年〜29(1896)年には常議員に選挙された。その後しばらく幹部から退いたが、明治38(1905)年に再び評議員に選挙された。その後、大正7(1918)年まで評議員を歴任している。
天保10(1839)年生〜?年没。小学校長。上野安中藩士の子として生まれた。土地の教師について漢学を修めたという。安政2(1855)年には藩学句読師を務め、同5(1858)年江戸在勤を命ぜられて禽獣役となる。明治3(1870)年には安中藩文武校権少属に任ぜられた。明治8(1875)年、齢36歳にして東京師範学校に入学、明治10(1877)年3月に同校小学師範科を卒業した。同時に卒業した者の中には、東京教育会幹部を共に務めることとなる千葉実がいた。
東京師範学校卒業と同時に、丹所は東京府学務課に抜擢され、4月には芝桜川女学校へ取締として、日本橋城東小学校へ三等訓導(月俸金20円)として赴任した。明治11(1878)年5月、以後長年勤務することとなる公立番町小学校へ転任(富士見女学校訓導も兼務)。また同月、東京府の命により、仮師範分校において私立小学校教員に授業法の伝習を行った。明治15(1882)年9月には、番町小学校一等訓導兼校長に任じられた。明治16(1883)年、文部省より賞を受け、翌17(1884)年には終身有効の東京府師範学校卒業証書を受けた。明治24(1891)年、小学校普通免許状の交付を受け、名実ともに小学校教員となった。
丹所は、明治20(1887)年には番町小学校運動会費に、明治24(1891)年には同校附属幼稚園建設費に、多額の費用を寄附して木杯を授与された。明治30(1897)年、住民に請われて麹町区長を務めたが、明治33(1900)年には再び番町小学校長に就いた。明治37(1904)年、私立高千穂学校小学部主事に迎えられた。丹所は、「至誠一貫、実践躬行的教化」を教育の主義とし、「児童教化を徳の一義に期」して、「凡て率先躬行自家の徳行を以範を為」したとされる。校長としての方針は、「専ら部下職員の人格を尊重し、大に其特長技量を発揮せしめ、殆んど教務の干渉を避け、其抜(ママ、指?)導を懇切」にしたという。結果、校長と教員との間には「交際上階級的障壁でなく、校内円満和気藹々常に充溢せる」という。丹所は、強力なリーダーシップを発揮したというより、各教員の自発性を重んじ適所でアドバイスを与える校長であったようである。
小学校訓導・校長として腕を揮った丹所だが、東京府教育行政にも重要な役割を果たしている。明治13(1880)年から翌年にかけては小学教則草案取調委員を務め、明治21(1888)年には、小学校教科用図書審査委員を務めた。明治24(1891)年からは東京市学務委員、翌明治25(1892)年から麹町区学務委員も務めた。
『教育家銘鑑』には、丹所に対して以下のような文言が連ねられ、賞賛を与えている。
「温厚篤実、恭虔推譲の徳高く、恪勤厳粛威容犯すべからず、寛宏洋々人を包容する雅量あり、寡言沈黙、思慮周到曾て人と争はず、高韻雅致の風□は人をして敬慕の念を発せしむ、而も質素清廉にして堅忍不抜、敢て聞達を求めず時流を追はず、権門富貴に阿附せず、…(中略)… 丹所啓行氏の如き師表的人格者は、現今幾十万の教育者中、匹儔罕に見る所にして、真に斯界後進者の模範なるかな。」
<参考文献>
「教育功績者丹所啓行君の履歴」『東京府教育会雑誌』第36号、東京府教育会、1892年、34〜35頁。
「東京市番町尋常高等小学校長丹所啓行君小伝」『日本之小学教師』第1巻第2号、国民教育学会、1899年、48〜49頁。
『教育家銘鑑』、402頁。
「公立小学校長師範学科卒業証書授与伺」『』475〜476頁所収。

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