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沢柳 政太郎 (さわやなぎ まさたろう)
(写真出典:)
帝国教育会第10代〜代会長。大日本教育会東京府・京都府・群馬県会員。帝国教育会東京府・京都府会員。明治20(1887)年度の大日本教育会会員名簿に、初めて名を連ねている。明治31(1898)年11月26日の帝国教育会臨時総集会にて、初めて同会常議員(後、評議員)に当選。明治44(1911)年まで帝国教育会評議員を務めた。また、様々な委員を務め、積極的に会務に関わった。大正4(1915)年12月3日の辻新次会長薨去を受け、大正5(1916)年1月22日に会長に選挙される。沢柳会長は、多様な全国会議の主催による教育関係者の組織化、女性教員の組織化、国際会議出席による国際的動向への積極的関与、機関誌『帝国教育』上における教育関係者の自律性喚起、多様な教育参考書の編集・出版や教育調査の実施による教育研究の奨励・推進などといった各種事業の先頭に立ち、大正期における帝国教育会の発展を導いた。
慶應元(1865)年生〜昭和2(1927)年没。文部省官僚・帝国大学総長・著作家・成城小学校長など。松本藩士の長男として生まれる。明治6(1873)年、山梨県甲府市の徽典館に入学、翌明治7(1874)年に松本の開智学校下等小学に編入した。明治8(1875)年、父の転勤にともなって上京し、東京師範学校附属小学で学んだ。下校後は青藍舎で学び、漢学書を読破した。明治11(1878)年に東京府中学へ入学、明治13(1880)年には東京大学予備門に入学した。明治17(1884)年、東京大学文学部哲学科に入学、上田万年・日高真実・徳永(清沢)満之・狩野亨吉などの多くの友人を得た。明治19(1886)年、日高・松本源太郎と東北を旅行し、『みちのおく山里日記』を著した。これが沢柳の著作活動の最初とされている。明治21(1888)年7月、上田万年とともに帝国大学文科大学哲学科を卒業した。
沢柳は、帝大最後の一年間、文部省の貸費生であった。そのため、帝大卒業後数日にして文部省へ就職し、文部省総務局雇となった。文部省では順調に出世し、明治24(1891)年には、大木喬任文部大臣の下で文部大臣秘書官兼文部書記官を務めた。明治25(1892)年11月、修身教科書機密漏洩の責任をとり、依願免官となる。しかし、明治30(1897)年4月には第二高等学校長に抜擢、さらに翌明治31(1898)年7月には第一高等学校長となり、官途に復帰。同年11月、文部省へ呼び戻されて普通学務局長などを務め、広島高等師範学校の創立、国定教科書の調査、第三次小学校令の制定などの教育改革の実務的な指揮を執った。明治39(1906)年7月、牧野伸顕文部大臣の下で文部次官に就任、小学校令改正による義務教育六ヶ年延長、官立大学・高等学校・高等師範学校の増設などを実施した。明治41(1908)年、腸チフスを患い、同年7月、文部次官を依願免官となった。明治44(1911)年3月、三度官途に復帰し、東北帝国大学創立にあたって初代総長に就任、帝大への女子入学・博士号取得の門戸を開いた。大正2(1913)年5月、京都帝国大学総長に就任。このとき、教育・研究の任に当たれないと判断した7名の教授に辞表を提出させたが、京都帝大法科大学教授会の反発に遭って、文部省を巻き込む大事件に発展させてしまった。これがいわゆる京大沢柳事件であった。大正3(1914)年4月、事件を収拾した後、京都帝大総長を依願免官した。これ以後、三度復帰を繰り返した官僚としての活動を終えた。
沢柳は教育行政官であると同時に、実際の教育者でもあった。帝国大学在学中は、東洋英和学校や駿河台成立学舎などで英語の教師を務めた。明治20年代の文部省時代には、東京専門学校(現早稲田大学)や哲学館(現東洋大学)の講師を務め、心理学・社会学・倫理学の講義をした。また、沢柳は優秀な校長でもあった。帝国大学総長や高等学校長を務めたのは上記の通りだが、明治26(1893)年9月には京都・大谷尋常中学校長、明治28(1895)年2月には群馬県尋常中学校長、明治35(1902)年4月には広島高等師範学校長事務取扱、明治42(1909)年9月には高等商業学校長事務取扱などを務め、各学校の直面している各種問題を収めていった。さらに沢柳は、教育学書の著作家でもあった。代表作は『教師及校長論』(明治41年)と『実際的教育学』(明治42年)であり、他に『公私学校比較論』(明治23年)、『教育者ノ精神』(明治28年)、『学修法』(明治41年)、『孝道』(明治43年)など多数である。また、『格氏普通教育学』(共訳、明治25年)や『中学修身書』(明治42年)などの教科書も著した。
文部省官僚としての活動を終えた沢柳は、その後、教育運動の先導者として名を馳せた。様々な団体の長を務め、その中でも帝国教育会長としての活動は顕著なものであった。また、大正6(1917)年4月、実験的な教育研究の場として私立成城小学校を創設し、校長として教育研究を推進した。さらに、明治42(1909)年12月には貴族院議員に勅撰、大正6(1917)年9月には臨時教育会議員、大正8(1919)年2月には臨時教育委員会員、大正10(1921)年7月には教育評議会・臨時教育行政調査会員、大正13(1914)年4月には文政審議会員に選定され、民間の教育運動の代弁者として教育政策の決定過程に関与した。
沢柳は、とくに宗派にこだわることはなかったそうだが、明治22(1889)年に雲照律師に出会って以来、熱心に仏教に帰依したという。文部官僚を務めながら、雲照律師の目白僧園を維持にあたり、十善会を再興して雑誌『十善寶屈』を発行した。明治26(1893)年9月には、清沢満之の懇請を受け、真宗大谷派の大谷尋常中学校長に就任した。晩年の大正15(1926)年4月には、大正大学校の学長にも就任している。
沢柳は、教育行政・学校運営・専門教育・仏教教育・教育研究・教育運動など多様な教育分野で活躍した。明治期の沢柳は主に文部官僚・帝大総長として、大正期の沢柳は主に帝国教育会長・成城小学校創立者として評価されているといってもよい。多様な顔を持つ沢柳であったが、帝国教育会への尽力は並々ならぬものであり、それが評価されているのである。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
沢柳礼次郎『吾父沢柳政太郎』冨山房、1937年(復刻:伝記叢書3、大空社、1987年)。
成城学園沢柳政太郎全集刊行会編『沢柳政太郎全集』全10巻、国土社、1975〜1980年。
中野光「帝国教育会の歩み−『帝国教育』を読む」『戦間期教育への史的接近』中野光教育研究著作選集3、EXP、2000年、43〜92頁。
新田義之『澤柳政太郎−随時随所楽シマザルナシ』ミネルヴァ日本評伝選、ミネルヴァ書房、2006年。

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