
ファイル34:
宮本 正貫 (みやもと まさぬき)
(写真出典:福原要編『鯉城―創立五十周年記念号』広島県立広島第一中学校校友会、1929年)
帝国教育会広島県会員。明治38年度の名簿にその名を確認できる。いつなったか確認できなかったが、このときすでに終身会員となっている。明治30年代の終身会員は、帝国教育会基金に金20円以上を寄附した者である。明治32(1899)年11月決定の年会費は1か年につき1円50銭であったから、宮本の貢献度の高さをうかがわせる事実である。
?年生〜明治45(1912)年没。中学校長。豊田郡大崎島において、儒医の子として生まれた。はじめは文太郎と名乗った。幼時に儒者・吉村斐山と河野小石とについて経史を学ぶ。広島医学校で医学を学んだ後、明治15(1882)年に上京。明治17(1884)年、東京大学に入学した。在学中、苦学しつつ根本通明に儒学を学び、後に文科へ転科して哲学を修めた。明治27(1894)年7月、ついに帝国大学文科大学漢学科を卒業し、大学院へ進んで「孔子倫理教」を研究している。その後、女子高等師範学校教授に着任した。明治30(1897)年から、哲学館で臨時講師も務めている。なお、明治31(1898)年、広島県立忠海中学校長となって帰広した。
明治34(1901)年7月、県立広島中学校長に転任する。宮本は、同年9月の始業式の際に行った就任挨拶で、次のように述べた。中学生の中には我は英雄たらんとして校則を無視し、乱暴驕傲の行いをなす者がいるが、中学校の目的は、男子に須要なる高等普通教育を授けることにある。中学校は英雄を養成するところではない。我々教員は、君たち(県中生)とともに教育勅語を奉戴し、人類の目的として現今の倫理学界の輿論たる「人格パーソナリテー」を発展させ、皇恩の万一に報じたい。このように述べた宮本は、まず校規粛正を掲げ、広島中学校の改革に取り掛かった。
宮本は、明治34(1901)年、まず校友会の改革を行った。校長と生徒のみの従来の組織を教職員と全生徒とによる構成に改め、部(雑誌部・談話部・短艇部など)に組織を分けた。各部には部監(教職員)・部員(生徒)を設置し、部活動の世話だけでなく、学内外の風紀をも取り締まらせた。この制度は、生徒達の手で生徒自身の生活全般について自治的に取り締まらせ、「県中精神」を植え付けるものとして昭和20(1945)年まで続いたという。明治35(1902)年には、学内外における制服・制帽等の着用などを義務化している。
また、宮本は中学生の増加に伴い、学校規模を拡大していく。明治35年には理化学教場の増築、明治36(1903)年には雨天体操場・ボート繋留所を新築、明治38(1905)年に広島県師範学校農業実習地を移管して、学校の増築整備も推し進めた。さらに、高等学校進学者のために補習科(4ヶ月)を創設した。明治35年3月、さきの中学校教授要目に対応して、広島中学校の教育課程を改定したのも宮本校長の時代である。
県中校長時代には、小学校教員検定委員会常任委員も長年務めている。明治39(1906)年、呉市教育顧問に着任。さらに、明治40(1907)年には呉中学校長となった。なお、明治38年には広島県私立教育会常議員に名を連ねている。明治45年6月、病没。
宮本の人となりは、『芸備先哲伝』によると、温厚、寛容、名利をむさぼらず、すこぶる研究心に富むとされた。その著書には、『東洋歴史』(明治28年〜29年、坪井九馬二閲)、『忠孝経』(訓点、明治42年)、『聖教要典』(明治43年)、『資治通鑑鈔』(明治44年)、『唐宋八家文鈔』(明治44年)がある。
<参考文献>
『教育公報』
帝国大学編『帝国大学一覧』自明治28年至明治29年、1896年。
玉井源作『芸備先哲伝』芸備先哲伝発行所、1925年、520〜521頁。
福原要編『鯉城―創立五十周年記念号』広島県立広島第一中学校校友会、1929年。
広島県教育会編『広島県教育会五十年史』広島県教育会、1941年。
広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編『広島一中国泰寺高百年史』母校創立百周年記念事業会、1977年。
東洋大学井上円了記念学術センター編『東洋大学人名録 役員・教職員 戦前編』東洋大学井上円了記念学術センター、1996年。

0