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野村 保 (のむら やすし)
(写真出典:『広島光道学校の思い出』広島光道学校同窓会、1990年)
大日本教育会広島県会員。明治20(1887)年の名簿にその名が見られるが、翌明治21(1888)年にはすでに退会している。住所は、広島市猫屋町光道館となっている。
?年生〜?年没。小学校長・実業家。明治初年、野村は大高十郎とともに十名講を開き、明教寺を拠点として仏教活動を始めた。明治7年、大高は明教寺において、門徒子弟に仏教を説くとともに読書算を教えるようになったという。明治12(1879)年、組織名を闡教社とし、従来子弟教育に当たっていた部門を私塾として光道館を設立した。光道館は、私立小学校であった。明治18(1885)年には、広島最初の二階建て洋館校舎を有したという。明治19(1886)年6月、野村は、この光道館の運営資金を獲得するため、広島ミルク合資会社(のちのチチヤス)を創立した。
光道館は、浄土真宗系宗教団体の闡教部(せんきょうぶ)の経営による教育組織であった。「闡教」とは『無量寿経』の「光闡道教」から名付けられたもので、「光道」もここから名付けられた。大正11年、火事で施設の大半を焼失させて廃校の危機に見舞われたが、寄附金を集めて鉄筋三階建て校舎(神戸以西の学校で初)を持つに至った。同じ年に広島師範出の土居愈吉が校長となり、大正12(1923)年には光道小学校と改称した。自由教育・宗教教育・男女共学を教育目標に掲げ、尋常小学校児童240名を抱える小学校であった。昭和20(1945)年8月、広島への原爆投下により建物を残して壊滅。再建の見込みがたたないため、同年10月に廃校となった。
初期の大日本教育会は、野村のような私立小学校の支援に熱心な実業家をも会員とした。大日本教育会が、今で言うような意味での教職員団体ではなく、もっと裾野の広い組織であったことを物語っている。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』
広島県教育委員会事務局調査課『広島県教育八十年史』広島県教育委員会、1954年。
『広島光道学校の思い出』広島光道学校同窓会、1990年。

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