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高木 幹吾 (たかぎ かんご?)
(写真なし)
帝国教育会広島県会員。明治41(1908)年入会。住所が猫屋町光道館(真宗系宗教団体闡教部の経営、私立光道小学校を創立・経営)となっており、野村保(〜明治20年)・松本九郎右衛門(明治21年〜明治28年)・山県徳兵衛(明治38年)に引き続いて入会したように見える。大正4(1915)年2月付の名簿までその名を見出せる。
なお、光道館関係者と同一人物かどうかは不明であるが、広島県の教育関係者のなかに同名の人物を見出したため、以下に紹介しておく。
?年生〜?年没。安佐郡安村長。明治9(1876)年、村吏となった。明治11(1878)年の町村制実施に際して6か村合併により誕生した安村において、村長となった。党派に偏せず、村民と懇切に接し、教育上・殖産上に裨益を図った。村内のみならず郡内の徳望も高かった。明治12(1879)年から15(1882)年にかけての貧困者の救助、明治15年までの安川架橋、明治17(1884)年からの道路敷設など、たびたび自費をもって村内の公共事業に務めた。
教育上の功績も多い。明治12(1879)年から明治16(1883)年まで、村内小学校における尋常試験の優等者に対し、自費で賞品をまかなって授与した。明治13年には、村内公共事業の資本を設けるため、有志者とともに潤徳社を結社し、その利金をもって土木費・教育費・寺社補修費にあてた。明治16(1883)年には、学校規模の適正を期すため、自ら大金を出して上安・高取・相田村の小学校校舎を建築している。明治17(1884)年から明治22(1889)年までは、村内小学校生徒運動会を実施して自費で賞品を与えた。
高木は、貧困の幼少生活の後、節倹によって家産を興して財産家となったという。性格は剛直。専ら徳義を重んじて奢ることなかった。節倹を守るが吝嗇ではなく、公共事業には率先して醵金し、金を投じて貧者を救済するような人物であった。これらの功により、明治26(1893)年8月、藍綬褒章を賜っている。
<参考文献>
『帝国教育』
中江誠一『芸備彰徳史』芸備奨徳普及会、1918年、210〜215頁。

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