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中島 泰蔵 (なかじま たいぞう)
(写真出典:心理学研究会編『心理研究』第16巻第96号、1919年12月)
帝国教育会東京府会員。大正元(1912)年と大正4(1915)年の会員名簿にて、その名を確認できる。入会の事実は確認できないが、明治28(1895)年、『大日本教育会雑誌』に「不健全の心的徴候」(165号)と「児童心意実験之結果」(171・172号)を掲載させている。また、明治34(1901)年4月27日、帝国教育会が開催した高等学術講義会「近世心理学」の講師を務めた。この高等学術講義会とは、明治32(1899)年5月から始められ、梅謙次郎、和田垣謙三、大瀬甚太郎、木場貞長などそうそうたる講師によって行われていた。中島はこのような講義会の講師となり、近世心理学の理論・応用・実験法について講義を行っている。中島の講義は、聴講料金1円(会員は1割引)、帝国教育会講堂にて毎週1回、午後2時半から2時間の日程で全10回行われた。出席の状況により受講証明状も授与されている(講習歴は教員免許状格上げの際に用いられた)。さらに、明治34年5月、公徳養成に関する教育者の参考書編纂委員会にて参考書の起稿者に選ばれ、同委員とともに『公徳養成』(明治35年9月発行)の編纂に尽力した。明治34年10月から12月10日までの間には、帝国教育会基金へ金20円を即金で寄附している。
慶応2(1866)年生〜大正8(1919)年没。心理学者。慶応2年4月、若狭国三方郡に生まれた。はじめ松太郎と名乗り、後に泰蔵と改めている。学問好きの父の下で育ち、生家近くの禅寺で学んだ後、海軍軍人を志して大阪の泰西学館で英語を学んだ。この頃、外国人と交流して、キリスト教の洗礼を受けている。明治23(1890)年、泰西学館高等科を卒業したが、目を悪くして海軍に入ることを断念せざるを得なかった。明治24年春、上京して元良勇次郎の心理学談話会(後明治34年に心理学会に改組)に出席し、同年6月には渡米した。アメリカではコロラド大学で哲学を学び、明治26(1893)年6月に哲学士の学位を授与された。同年9月、ハーバート大学大学院に進み、翌明治27(1894)年6月まで、アメリカ初の心理学実験所を作ったW.ジェームズの下で心理学を修めた。同年、帰国した。
明治28年、中島はハーバードでの心理学実験の経験をかわれて帝国大学文科大学心理学事務取扱補助嘱託となった。同大学教授・元良勇次郎の助手を務めつつ、自身の研究を推進し、かつ実験機器などの製作監督を務めて同大学心理学教室を整備した。また、明治29(1896)年には早稲田専門学校講師(〜明治31(1898)年)、明治31年8月には学習院教課授業嘱託(講師、〜明治32(1899)年)と慶應義塾大学部文学科教育学講師(〜明治36(1903)年)を務めている。明治37(1904)年1月、札幌農学校英語・倫理講師となり、明治39(1906)年2月まで同職を務めた。
明治39年8月、再度渡米し、ハーバード大学へ留学した。明治40(1907)年6月、哲学修士の学位を受けた後、コーネル大学へ転じて研究を継続している。明治42(1909)年5月、アメリカ科学会正会員に選挙、同年6月には哲学博士の学位を受けた。同年8月に帰国、実践女学校講師(〜大正6(1917)年)を務めるとともに、華族女学校の下田歌子校長と佐野安幹事の推薦を受け(中島の妻さとは同校教授であった)、萩毛利家公女の教養に務めた(〜大正5(1916)年)。
明治43(1910)年9月、早稲田大学の講師となって実験心理学を講じた。このころ、中島は海外での研究業績をまとめ、東京帝国大学に学位論文として提出した。しかし、中島の学位論文は、元良勇次郎の病気によって審査されないままに置かれ、大正2(1913)年に旧友の松本亦太郎が同大学に着任してようやく審査を遂げることができたという。大正3(1914)年7月、ようやく文学博士の学位を受けた。大正4(1915)年には、日本大学で英語・倫理を教えている(〜大正5(1916)年)。大正5年、早稲田大学教授に就任し、実験心理学研究所の設置に努めた。研究所の完成を前にして病に倒れ、大正8年9月、自宅にて死去した。家族には「家事については更に憂へることはない、ただ早稲田の実験室を完成したかった」と言い遺したという。
中島は、多くの著作を残した。著書には、『心理講義』(明治30年)、『心理学概論』(元良と共訳、明治31年)、『心理学綱要』(明治34年)、『心理学及研究法』(明治36年)、『最新研究心理学』(明治43年)、『個性心理及比較心理』(大正4年)がある。その他に、論文や解説なども多い。
中島は、明治28年、元良勇次郎の下で心理学の研究に従事しながら、『大日本教育会雑誌』へ2本の論説を投稿した。非会員の中島が何度も論説を掲載させた理由は、内容の質もさながら、大日本教育会における元良の活動をはずして考えることはできないだろう。とくに、同誌第171号・第172号に連載された児童の心理実験に関する論説は、当時、元良が大日本教育会児童研究組合で児童研究に従事していたことと関係がありそうに思われる。また、明治34年には、著名な学者が講師を担当していた高等学術講義会に出講し、いわば心理学の代表として講義を行った。
このように、主に心理学者としての活動を行ってきた中島だったが、『公徳養成』起稿者という、若干毛並みの異なるように見える企画に参加したのは興味深い。『公徳養成』の内容は、中島以外の委員の修正意見がかなり容れられているので、そのまま中島の教育理論とはいえない。とはいえ、帝国教育会の公徳養成理論の稿本は、アメリカで哲学を学び、東京帝国大学で心理学の研究を進めながら、慶應義塾で教育学を教えていた中島によって作られたのである。明治30年代頃までの教育学は、心理学や倫理学とともに哲学の一分野であった。実は、哲学士である中島が倫理学・心理学・教育学にわたって講じたことは、当時としてはそれほど不思議なことではない。ただし、慶應義塾を去ってアメリカへ再留学した後の中島には、実験心理学者として着々と履歴を重ね、教育学研究の業績を積んだ様子は見られない(児童心理の研究は続けている)。もしかすると、帝国教育会編『公徳養成』は中島泰蔵の教育学者としての最終期の成果であった、といえるのかもしれない。
<参考文献>
『教育公報』『帝国教育』
慶應義塾編『慶應義塾五十年史』慶應義塾、1907年。
松本亦太郎「中島泰蔵博士を憶ふ」心理学研究会編『心理研究』第16巻第95号、1919年11月、80〜86頁。
渡邊徹「故文学博士中島泰蔵氏小伝」心理学研究会編『心理研究』第16巻第95号、1919年11月、86〜97頁。
五十嵐栄吉編『大正人名辞典』東洋新報社、1914年、1550頁。
大泉溥編『日本心理学者事典』クレス出版、2003年、778〜780頁。
※本記事については、柄越祥子氏より、論文(柄越祥子「初期中等教員無試験検定期における慶應義塾の教育学―大学部と中島泰蔵をめぐって」慶應義塾大学・三田哲学会『哲学』第123集、2010年、323〜340頁)の作成にあたって参照した旨、申し出がありました。お役に立てたことをうれしく思うと同時に、拙稿を参照していただきありがたく思います(2010.6.6)。

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