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穂積 陳重 (ほづみ のぶしげ)
(写真出典:五十嵐栄吉編『大正人名辞典』東洋新報社、1914年)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員。明治16(1883)年12月付の名簿以来、大正4(1915)年付の名簿(現在確認できる2番目に新しい名簿、最も新しいものは昭和8(1933)年のもの)までその名を確認できる。大日本教育会結成から沢柳会長期の帝国教育会まで、一貫して会員であった可能性が高い。明治17(1884)年から19(1886)年にかけては審査員(学術部)、明治21(1888)年から22(1889)年にかけては議員を務めた。明治23(1890)年以降は、会の役員を務めていない。穂積の顕著な活動としては、明治33(1900)年12月、帝国教育会総集会における「公徳教育に就て」と題した演説がある。同年5月に欧米諸国の巡回から帰った穂積は、日本人の道徳が現地の道徳に比べて劣っていることを問題とし、帝国教育会=「日本で一番有力な、一番大きな此教育社会」にその養成を訴えている。ここでは、道徳の歴史を「家族的道徳」→「社会的道徳」→「人類的道徳」の順に発達するものと捉えた上で、社会的道徳すなわち「公徳」(国民の政治参加による立憲政治と、欧米諸国との貿易を念頭に置いた経済社会とに対応する社会的道徳)を、普通教育において養成すべきことを説いた。国民の政治参加と憲法による政治を、養成すべき道徳の根底に置いた点は、法学者・穂積陳重の真骨頂を発揮した道徳教育論ともいうべきであろう。なお、この会場には文部省官僚を含む帝国教育会幹部や、時の文部大臣・松田正之がいた。文部省は早速、翌明治34年2月、全国連合教育会へ小中学校における公徳養成方法を諮問している。この文部省諮問は、さらに帝国教育会における公徳養成方法・理論調査につながっていく。
安政3(1856)年生〜大正15(1926)年没。法学博士。伊予宇和島藩士の次男として生まれる。曾祖父の穂積重麿は国学者。実弟に憲法学者の穂積八束がいる。藩校明倫館に学び、明治3(1870)年、貢進生として大学南校に入学。明治9(1876)年、イギリスのロンドン大学キングス・カレッジに留学、同年には法曹学院ミドル・テンプルにも入学した。明治12(1879)年、法廷弁護士Barrister-at-Lawの称号を得た後、ドイツ・ベルリン大学へ留学、明治14(1881)年に卒業して帰国した。
明治14年、帰国した穂積は、東京大学法学部講師に就任した。交詢社(イギリス学派)と対抗関係にあった独逸学協会(明治14年9月結成)に入会し、ドイツ学の振興に努めた。翌明治15(1882)年2月、東京大学教授兼法学部長となって法理学を担当し、加藤弘之総長と協力して、ドイツ法制学の導入を推し進めた。また、明治18(1885)年、増島六一郎らとともに英吉利法律学校(後の中央大学)を創立、ドイツ学によるイギリス学の統制体制の構築に関与している。明治19年には、帝国大学法科大学教授兼教頭に就任した。
明治21年、日本初の法学博士となった。明治23年から明治25年2月までは、勅撰の貴族院議員も務めている。また、明治24(1891)年、ロシア皇太子の暗殺未遂事件であった大津事件に際して、犯人死刑論を非難して大審院長・児島惟謙を激励した。明治22年から25(1892)年11月の間に行われた民法典論争では、施行延期論の立場に立っている。明治26(1893)年3月、法典調査会の設置にあたって、富井政章・梅謙次郎とともに起草委員となって、現行の民法を起草した。この法典調査会では、家制度の立法化に指導的役割を果たしている。
明治26年、帝国大学法科大学長となり、翌明治27(1894)年まで務めた。以後、大正元(1912)年まで東京帝国大学法科大学教授を務めた。この頃、法律調査会委員や臨時法制調査会総裁として、商法・民事訴訟法・刑法・監獄法・陸海軍刑法などの多くの立法に関与した。また、明治32(1899)年から明治33(1900)年5月にかけて、イタリアの万国東洋学会に参加、欧米諸国を巡回して衣服・飲食・美術・音楽・道徳などを見て回っている。大正5(1916)年には枢密顧問官、大正14(1925)年には枢密院議長を務めた。
穂積は、比較法学・法史学・法哲学などの様々な部門の先駆者であり、イギリス・ドイツ両法体系と日本法史の知識を背景に、多様な著作を残した。法典論争の時期には、『法典論』(明治23年)、『隠居論』(明治24年)を著した。法科大学退官後には、『祖先祭祀と日本法律』(大正6年)、『五人組制度論』(大正10年)、『五人組法規集』(同年)、『法窓夜話』(大正15年)、『法律進化論』(大正13(1924)年〜昭和2(1927)年)などを著した。死後にも、『神権説と民約説』(昭和3年)、『慣習と法律』(昭和4年)、『復讐と法律』(昭和6年)が刊行されている。
穂積は、ドイツ法学を頂点とした法学のなかで有力な地位を占め始めたころ、大日本教育会にも関与した。大日本教育会では初期に役員を務めたが、これといった業績を納めていない。しかし、明治30年代には、帝国教育会を動かすことにつながる発言をした。穂積は、帝国教育会総集会において文部省関係者や帝国教育会幹部を前に公徳養成問題の重要性を説くことで、その問題解決策を具体的に検討させるきっかけを作ったのである。
なお、長男に民法学者の穂積重遠がいる。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『職員録』
山室信一『法制官僚の時代―国家の設計と知の歴程』木鐸社、1984年。
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第12巻、吉川弘文館、1991年。
白石崇人「明治期帝国教育会における道徳教育研究活動」中国四国教育学会第58回大会レジュメ、2006年11月。

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