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西村 貞 (西邨 貞、にしむら てい、さだむ?)
(写真出典:『日本之小学教師』第15号)
大日本教育会東京府会員・熊本県会員、帝国教育会東京府会員。明治15(1882)年5月、教育理論を研究し、実践を討議し、当務を調査するため、東京教育学会長となる。明治16(1883)年9月9日の大日本教育会結成に際しては幹事に選出された。しかし、同月15日に開かれた臨時集会において、辻・中川・西村の文部省官僚3名はそれぞれ辞職を申し出た。会長に選出されていた辻によると、会の前途を考えると自分はその任に堪えないという理由であった。西村は、「通常ノ会員トナリテ本会ノ為ニ十分尽ス所アルベシ」と述べている。結局、会長は空位とし、辻は副会長に、中川は幹事に選出され、西村は希望通り無役職の通常会員となった。西村は言葉通り活発な活動を展開、明治16年から17(1884)年の間に四ッ谷区講習会・埼玉県川越宿教育講習会・神田区教員講習会へ大日本教育会から派遣され、講師を引き受けて講習にあたっている。西村は第1回常集会において、教育改良の方案として講習会を積極的に推していた。その構想を自ら実行に移したものと思われる。その後もたびたび大日本教育会からの派遣員として、各地の集会などで普通教育や理学教育の重要性などについて演説を行った。明治17年に審査員、明治19(1886)年8月に商議委員、明治20(1887)年11月に参事員・理事・議員、明治21年5月に初等教育部門長、明治23(1890)年5月に評議員(明治25(1892)年〜29(1896)年評議員会議長)、明治24(1891)年に参事、明治25年に会長事務取扱委員となった。明治30(1897)年5月に退会するまで、「研究」の事業化、部門の成立、全国教育者大集会の事務、教育学術研究の事業化、帝国教育会への改称再編などを先導した。
安政元(1854)年生〜明治37(1904)年没。文部省官僚・教育会役員。安政元年1月、足利藩士の家に生まれる。文久2(1862)年から8年間、足利藩校・足利学校において今井潜に和漢学を学ぶ。藩校では主簿と句読師を務めたという。明治3(1870)年2月、足利藩貢進生として大学南校に入った。明治6(1873)年3月、大学南校から改称した第一大学区第一番中学の上等中学第四級を卒業。同年4月、第一大学区第一番中学から改称した開成学校の理学科に進学、本科第二級まで修了した。明治8(1875)年11月、東京英語学校教諭となり、教場・寄宿舎の取締も兼務している。つまり、中川元と同僚であったことになる。
明治9(1876)年11月、23歳にして官立大阪師範学校長となる。明治11(1878)年1月、文部二等属官に任じられ、小学師範学科取調のためイギリスへ派遣された。なお、イギリスへ立つ船には、パリ万国博覧会派遣代表団(九鬼隆一代表)と、西村と同じく小学師範学科取調の任を帯びた中川元(フランス派遣)と村岡範為馳(ドイツ派遣)が乗っていた。西村は、グラスゴーのフリーチャーチ師範学校へ行き、正式な学生ではなく研修生として師範学科の研修を受け、明治12(1879)年12月に卒業試験を受けた。
帰国年月は不明だが、明治13(1880)年10月、文部一等属官・調査課兼務となり、同年11月には教則取調掛を兼務した。同年12月、編輯局兼務となり、かつ九鬼文部少輔に随行して、中国地方の学事巡視を行った。明治14(1881)年10月、普通学務局勤務・調査課兼勤、11月に体操伝習所主幹心得を兼務した。ただ、同年12月に依願免官、文部省御用掛・体操伝習所主幹となった(普通学務局調査課兼務)。明治15年4月、辻新次文部大書記官に随行し、東京府下の学事巡視を行っている。このように、適宜西村は地方学事の実際に触れつつ、教科書や教則などの調査・事務、および体操科教員の養成にあたっていた。東京教育学会の初代会長となったのはこの頃である。明治18(1885)年2月、体操伝習所長となる。3月には第1回中学校師範学校教員免許学力試験委員、7月には小学校条例取調委員を務め、中川とともに中等教員検定の実施と小学校令の制定に参画した。同年8月には文部少書記官となり、9月には第2地方部各県を巡視した。
明治18年12月、西村は非職となって一時文部省を去る。この後、大日本教育会の役員として奔走した。明治20年頃には、教育書肆の金港堂編輯部にて出版物の鑑定などをしていた。明治21年7月、野村彦四郎の招きで第五高等中学校教頭となって熊本へ入った。明治23年2月、文部省参事官となり、帰京。3月には第一地方部担当の視学官および普通学務局第一課長、4月には尋常師範学校経費審査委員・第3回内国勧業博覧会審査官となった。明治24年8月、文部省参事官および教員検定課長となり、尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員検定委員を務めた。しかし、明治25年11月、ここで再び依願免職し、ついに在野の人となった。
明治28(1895)年10月、浄土宗学本校教授兼教頭となった。明治30年6月、福岡鉱山監督署長となったが、翌明治31(1898)年1月に辞職。同年4月には、岡山県私立関西中学校長となったが、明治34(1901)年には辞職した。その後、しばらく東京小石川区にいたようだが、千葉へ転居し、明治37年11月頃そこで没した。
西村は、明治14年、イギリス留学の成果を遺憾なく発揮して、『小学教育新篇』全5冊を著した。同著は、イギリスの師範学校教科書と自らの実践経験を参照して小学校の教育理論を構築したもので、明治19年には文部省から伊沢修二『教育学』や高嶺秀夫『教育新論』などと並ぶ師範学校教科書として示されたほどのものであった。西村は、この『小学教育新篇』を基盤として、明治17年に『小学教育新篇講義録』、明治18年に『小学教育新篇箋解』(『小学教育新篇』の用語集)を著して、補足説明を行っていく。また、教育会などでは教育を理学(科学)の一つとして、自らの教育理論を構築していく。明治20年、日下部主宰の『教育報知』誌上で行われた投票において、有効投票数1,626票のうち346点を得て「教育理論家」の第一人者として評価された。なお、教育理論家として投票された次点以降の者を順に挙げると、外山正一321点、伊沢修二199点、能勢栄98点となっていた。明治26年4月には、それまで発表した論説を収録して、『教育一家言』として集大成している。
明治20年頃の西村は、下野したものの、「教育理論家」の第一人者と目されて輝いていた。明治30年代には、「教育界の不幸の士」や「大いに世に遇せらるべくして不遇に陥られたる教育家」(『日本之小学教師』)などと言われ、教育会へ還ることなく没した。しかし、明治41(1908)年の帝国教育会創立二十五周年記念会では、もちろん大日本教育会結成以来の功績をたたえられている。大日本教育会の立役者としての西村の功績は、忘れられていなかったのである。
<参考文献>
『東京教育学会雑誌』『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
「西村貞先生小伝」『日本之小学教師』第2巻第17号、36〜38頁。
「教育家十二傑投票開札」『教育報知』第72号、東京教育社、1887年6月、14頁
平田宗史『欧米派遣小学師範学科取調員の研究』風間書房、1999年。

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