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佐野 安 (さの やすし?)
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大日本教育会・帝国教育会東京府会員。『東京教育協会雑誌』によると、明治14(1881)年10月・12月に開かれた討論会において積極的に発言しており、少なくともこの頃からすでに東京教育協会の会員であったと思われる。明治16(1883)年9月、大日本教育会結成とともに、幹事に選出され、主に会計を担当した。明治22(1889)年12月まで、商議委員・議員・常置委員といった役員を歴任し、初期の大日本教育会の運営を支えた。明治23(1890)年以降は長く会の運営に関わらなかったが、残存する明治年間の会員名簿に常にその名を確認できることと、退会の形跡が確認できないことから、会員であり続けたものと思われる。明治41(1908)年12月、帝国教育会創立満二十五年記念会の際に、大束・丹所・生駒らとともに大日本教育会結成の功について功績記念品を贈呈された。翌明治42(1909)年3月、基金募集主任を引き受け、再び教育会運営に係わることとなる。同年4月には専務主事(明治43(1910)年7月に辞任して主事に就任)、7月には評議員に就任し、大正元(1912)年8月に没するまで務めた。この間、通俗講談会開設や教育図書館に関する事務・調査を担当している。
?年生〜大正元(1912)年没。学習院教師・華族女学校教員。群馬県士族。明治8年6月、東京師範学校小学師範学科を卒業。同期卒業生には生駒恭人がいた。明治10(1877)年1月、生駒らとともに学習院教師となって、最初期の学習院の教育を担った。なお、東京茗渓会結成にあたって、生駒らとともに同会主事となっている。
明治17(1884)年4月、宮内省への学習院移管の際、昭憲皇太后の思召しにより華族女子のための学校設置が計画された。これを受けて、明治18(1885)年9月、宮内省は華族女学校規則・華族女学校職制を達し、同年11月、華族女学校の開校式を行った。華族女学校の開校に際して、佐野は宮内庁御用掛と華族女学校幹事補兼教授補に着任し、下田歌子・工藤一記幹事の下で庶務管理および生徒教授などにあたった。開校当初の幹事補は佐野だけだったが、教授補には津田梅子がいた。明治19(1886)年2月、職制改正により、津田とともに華族女学校教授に昇進し、生徒の教授に専念することになった。当時の華族女学校教授には、佐野・津田および色川圀士・工藤一記・秋山四郎がいた。
明治30(1897)年頃、細川潤次郎校長在任下の華族女学校では、生徒用机による学習上・健康上の影響が問題となった。そのため、委員を設けて改良のための研究調査を行うこととなり、佐野は医学博士・三宅秀と文部省衛生局長・三島通良らとともに生徒用机改良の委員となった。そして、学習の利便性と生徒各自の身体発育への適合性を追求した生徒用机の改良に関与している。また、明治39(1906)年4月、学習院と華族女学校の合併および学習院官制改正により、女学部に学生監が新設された。佐野は教授と学生監を兼ね、学生の教授とともにその紀律を糺す職務をも担当し、明治41年4月の退官まで勤め上げた。
佐野は、最初期の学習院の教師となり、華族女学校の開校にあたって同校の教員となって、学習院女学部への再編直後まで教員を勤め上げ、晩年には帝国教育会の運営に関与した。免許(卒業証書)の関係から、おそらく初等小学科または高等小学科を担当していたと思われる。佐野は、最初期の学習院および華族女学校の初等教育を担い、とくに明治期の華族女子教育には無視できない存在であったと思われる。
<参考文献>
『東京教育協会雑誌』『大日本教育会雑誌』『帝国教育』
学習院編『開校五十年記念学習院史』学習院、1928年。
女子学習院編『女子学習院五十年史』女子学習院、1935年。
学習院百年史編纂委員会編『学習院百年史』第1編、学習院、1981年。

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