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日下部 三之介 (くさかべ さんのすけ)
(写真出典:『教育報知』第90号、東京教育社、1887年10月)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員。『東京教育会雑誌』第9号(明治13(1880)年11月)に東京教育会の会員として紹介されたのが初出であった。明治16(1883)年9月、大日本教育会結成に際して幹事(編集担当)に選出された。以後、明治19(1886)年に理事、明治20(1887)年に商議委員、明治21(1888)年〜22(1889)年に議員、明治23(1890)年〜26(1893)年に主事・評議員というように、大日本教育会の初期から中期にかけて幹部を歴任した。日下部は、東京教育学会以来、常集会演説や討論会などで積極的に教育会活動に参加し、教育会への帰属意識や積極的参加をしばしば呼びかけ、役員として各地へ演説・視察に出かけ、熱心に教育会員の紐帯強化・維持に努めている。しかし、明治20年代半ばに教育費国庫補助運動に尽力して、明治26年12月の組織改革において「主戦派」と目され、会中枢から追い落とされた。明治27(1894)年には、大日本教育会の教育費国庫補助運動復帰を目指して様々な活動を行っている。明治29(1896)年12月の帝国教育会結成に際しては、近衛篤麿初代会長に名指しで幹部就任を拒否された。この「日下部はずし」とも言うべき状況の背景には、学制研究会での近衛談話に関する新聞『日本』での誤報にあったようである。明治31(1898)年5月の近衛会長辞任を受け、同年6月以降、帝国教育会改革のための規則改定・実施に関する委員に選ばれ、評議員にも選挙された。再び教育会に返り咲いた日下部は、明治32(1899)年から明治42(1909)年までの間、評議員を務め続けた。この間、学制調査部の創設および帝国教育会の学制改革案の作成などに尽力している。なお、明治37(1904)年から主事に選任され、明治40(1907)年5月からは専務主事を務め、帝国教育会の実務も担当した。明治42年6月、教育基金要求運動の終結を見た後、専務主事・評議員ともに辞任し、帝国教育会から引退した。
安政5(1856)年生〜大正14(1925)年没。東京教育社長。二本松藩士の長男として生まれる。戊辰戦争の敗戦を受けた貧困の中、幼にして穎悟、読書を好んだという。明治2(1869)年に二本松の知新学舎に入学し、明治6(1873)年12月まで算術・漢学を学んだ。明治7(1874)年、原瀬小学校三等授業生に就任し、全校生徒45名を前に教鞭を執った。明治8(1875)年1月、新設の福島県小学教則講習所(後の福島師範学校)に入学、同年4月に卒業した。卒業後すぐに二等授業生に昇進、須賀川小学校に赴任した。
明治10(1877)年1月、上京。同年2月、上板橋小学校の後藤准訓導を務めた。明治11年5月には東京府師範学校教師傭、同年9月には定期試験掛、翌明治12(1879)年1月には四等准訓導に昇進した。この間、政治・経済・教育などを学んでいたという。明治12(1879)年3月、渋谷小学校他6校の巡回訓導となり、翌明治13(1880)年8月まで担当学校の教員に授業方法などを指導した。明治13年12月には青山小学校の教員となり、明治15(1882)年4月には同校校長となった。明治17(1884)年2月、文部省から学事賞与例による表彰を受けるまでに上り詰めた。同年7月、文部省御用掛に抜擢され、明治19年まで総務局・学務局で文部行政に関わった。
明治13年9月、日下部は自ら創設した教育月報社の社長となり、明化小学校教員の伊東忍と組んで『教育月報』を創刊した。日下部の真骨頂、教育雑誌の刊行事業はこのとき始まった。『教育月報』および明治15年に創刊した『教育旬報』は、資金面でうまくいかず、すぐに廃刊に陥った。しかし、明治15(1882)年5月の東京教育学会結成を契機に機関誌『東京教育学会雑誌』の編集を担い、大日本教育会結成後は『大日本教育会雑誌』の編集を担当した。明治19年に文部省を非職となるが、これは大日本教育会の理事に専念するためであったとされている。明治18(1885)年4月、教育報知社の『教育報知』創刊に関わり、同年11月以降は同誌の発行に深く関わった。明治19(1886)年11月、教育報知社を東京教育社と改称し、同社主となった。明治20(1887)年3月には、ついに文部省を辞職し、東京教育社長となった。これにより日下部は、号数・総部数ともに『大日本教育会雑誌』や『教育時論』を超えたという、大手週刊教育雑誌『教育報知』を主宰する立場となったのである。
『教育報知』の特徴は、内外教育に関するニュース報道を重視する速報性と、学術面よりも豊富な教育会記事や国家主義的な教育論説などの内容にあった。東京教育社は、読者層の拡大を目指して『貴女之友』(明治20年創刊)・『教師之友』(明治20年創刊)・『国民必読』(明治21年創刊)・『教育及政治』(明治21年創刊)などを創刊して、事業拡大を図っていく。また、教育関係図書・学校用品の販売などを行い、相当の成績を収めたという。日下部はこれらの事業の傍らに、大日本教育会の幹部としての活動だけでなく、東京府教育談会(のちの東京府教育会)の創設に深く関わり、東京府内の教育会活動をも支えた。また、国家教育社や国立教育期成同盟会に加わり、国立教育運動にも加わっていく。
明治25(1892)年2月、第2回衆議院議員総選挙に福島二区から出馬して破れて以降、日下部の人生は斜陽に傾く。明治26年11月、日刊の『明治新聞』創刊により経営難に陥り、日下部はその打開に忙殺されるに至る。また、同年12月、大日本教育会の役員の座を追われ、西村正三郎や清水直義らとともに名誉挽回を図ったが破れた。これらの活動に忙殺された結果、会社の看板である『教育報知』の編集・経営が疎かになってしまった。そして『教育報知』は、誌面の低迷を招き(日下部の個性が雑誌の特色・魅力となっていた)、読者離れを引き起こしてしまった。その後、様々な挽回策を実施していくが、いずれも不成功に終わってしまった。明治34(1901)年4月、ついに『教育報知』は休刊。明治35(1902)年8月に再び衆議院議員総選挙に立候補するが落選、同年12月には教科書疑獄事件について嫌疑を受けた。明治36(1903)年11月に『教育報知』を復刊させたが、翌明治37(1904)年4月、ついに656号をもって『教育報知』は廃刊してしまった。
明治37年2月、日下部は神田区会議員に当選し、明治38年9月には東京府会議員に当選した。その一方で、明治39(1906)年9月、日下部は『日本教育』を創刊して再び教育雑誌刊行事業に挑戦し、『教育時論』や帝国教育会の協力を得た。一時休刊に陥るが、明治42年4月、東京府会議員を辞任して『日本教育』の復刊に尽力し、大正末年まで同誌の刊行を続けたという。この間、明治45(1912)年4月には東京市会議員に当選(一期のみ)、大正6(1917)年11月に神田区会議員に当選し、大正14(1914)年1月に没するまで同議員を務めた。なお、大正12(1923)年の関東大震災後には、学校復旧に努力したという。
なお、日下部には厖大な編著作がある。現在、国立国会図書館には、『教育論説録』(編集、明治16年)、『教室必携』(立案、明治20年)、『国家教育策』(明治21年)、『文部大臣森子爵之教育意見』(編集・明治21年)、『尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校教員学力試験問題』(編集・明治21年)、『経国意見』(明治23年)、『教育学』(桜井卯市と共編、明治23年)、『会議論法 一名応用論理』(神作濱吉との共著・明治23年)、『小学校令釈義』(明治23年)、『教育典範』(明治25年)、『日本教育政典』(編集・明治25年)、『学務委員必読』(明治25年)、『百科新書』全6巻(明治26年)、『日本武訓』(明治28年)、『日本帝国小学校統理法』(編著・明治29年)、『皇太子殿下御慶事記念帳』(明治33年)、『九重の華』(明治34年)といった日下部の編著作が所蔵されている。また、小学校教科書として、『小学珠算入門』(明治15年)、『小学読本』(明治16年)、『小学家事経済訓蒙』(明治16年)、『小学初等科読本』(明治18年)、『小学日用文読本』(明治18年)、『珠算初歩』(明治18年)、『日本修身訓』(明治25年)、『日本女子修身訓』(明治26年)、『新撰小学読本』(明治26年)の編纂に関わった。日下部の教育論は、国家主義を基調とした小学校重視論であったと思われる。
日下部は、明治20年代までに授業生から文部省表彰の小学校長まで上り詰め、それ以後は教育雑誌刊行・教育会活動に主軸を移して、しばしば足下をすくわれながらも縦横無尽に活躍した。明治30年代半ば以降に『教育報知』の失敗を経験した後も、教育会の役員として、また東京府会・東京市会・神田区会において教育通の議員として活躍した。日下部の人となりは、部下の中村千代松に次のように評されている。
君は思慮に欠くるも精勤の人なり、
深謀の人にあらざるも熱心の人なり、
慎重の態度なきも軽薄の振舞ひなし。
日下部は、教育論説、雑誌編集・刊行、教育会運営などの領域で、敵をつくりながらも明治期の日本をがむしゃらに走り抜けた。未成熟であった明治期の教育社会を内的に外的に形成していく過程において、日下部の存在は大きかったように思われる。
<参考文献>
『東京教育会雑誌』『東京教育学会雑誌』『大日本教育会雑誌』『教育公報』『教育報知』
久木幸男「『教育報知』と日下部三之介」『教育報知』別巻、ゆまに書房、1986年、3〜29頁。

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