
ファイル8:
肝付 兼行 (きもつき かねゆき)
(写真出典:『日本之小学教師』第49号)
大日本教育会・帝国教育会東京府会員、帝国教育会評議員会議長。明治16年12月付の会員名簿に初めてその名が見出せる。明治21(1888)年〜22(1889)年、大日本教育会議員に当選し、初めて同教育会の役員となった。明治23年5月、大日本教育会は全国の教育関係者を初めて一同に集め、全国教育者大集会を開催したが、肝付はその事務取扱委員長を務めた。また、明治24(1891)年に評議員に当選、明治27(1894)年まで評議員(明治26(1893)年12月から常議員)を歴任し、明治25(1892)年には評議員会議長代理を務めた。この間に肝付は、全国教育連合会決議の中央教育議会建議案へ陸海軍武官議員の件を含める提案をし、建議案へ反映させている。なお、この中央教育議会建議案は、その後、文部省所轄の高等教育会議の設置に至る背景として位置づけられていることは言うまでもない。なお、関連する事例として、この時期の評議員在任中、大日本教育会は明治25年の全国連合教育会へ「土地ノ情況ニ依リ師範学校ノ教科中ニ水産科ヲ設クルノ建議案」(案文は『大日本教育会雑誌』114号に掲載)を提出し、同会議席上で議決されている。
肝付は、明治28(1895)年に一時、常議員を辞退した。しかし、明治29(1896)年12月の帝国教育会結成にあたって、再び常議員に当選した。明治33(1900)年以降、評議員会議長を務め、帝国教育会の要務に携わり続けた。明治34(1901)年以降、全国連合教育会にも帝国教育会代表の一人として参加した。また、同年12月の第18回帝国教育会総集会では、任期切れによる会長・評議員選挙の際、会の結束を固めるために現在の会長・評議員の再選を動議し、満場一致で可決させた。この時期の帝国教育会は、大日本教育会末期から引きずる関係者間の遺恨や明治31(1898)年〜32年にかけての会長選の迷走、相次ぐ組織改革などを経験したばかりであり、組織的に不安定な状態にあった。肝付の提案は、このような状態から抜け出し、帝国教育会の組織を安定させる一つの契機となっていたと考えられる。学校教員や文部省官僚の多かった両教育会の組織において、海軍軍人という地位は特殊であったが故に、このような役割を演じることができたのかもしれない。肝付は、大正元(1912)年まで評議員を歴任した。大正2(1913)年に一時、評議員を辞退したが、大正4(1915)年には再び評議員に当選した。以後、大正11(1922)年の死去まで帝国教育会評議員を務めている。
嘉永6(1853)年生〜大正11(1922)年没。海軍軍人。薩摩藩士・肝付兼式の長男として生まれる。明治5(1872)年、海軍中尉に任じられ、海軍軍人としての道を歩き始めた。明治16(1883)年、西日本方面の帝国海軍鎮守府の候補地調査にあたり、海軍水路部測量班を率いて広島県を視察。呉湾の適性を指摘して、呉鎮守府設置の契機をつくった。明治38(1905)年には海軍中将に昇進、海軍水路部長や海軍大学校長などを歴任した。
明治39(1906)年、予備役に編入。大日本水産会漁船々員養成所長、大日本水産会顧問、帝国水難救済理事、糸崎船渠会社長などを歴任し、水難救済・水産事業に尽力した。また、明治40(1907)年、日露戦争の功により男爵となり、明治44(1911)年には貴族院議員に勅撰された。さらに、大正2(1913)年には、大阪市長となった。
肝付は、海軍・水産関係の分野で活躍したが、大日本教育会・帝国教育会での活躍もめざましかった。そのため、両教育会にとって重要な存在であった。明治25(1892)年の辻新次会長辞任の際、杉浦重剛・西村貞とともに会長事務取扱委員を務めた。また、大正4(1915)年の辻新次会長死去を受けた会長選挙の際には、教育雑誌『教育界』において、沢柳政太郎・菊池大麓・小松原英太郎などの文部大臣・次官経験者とともに次期会長の候補者として挙げられた。これは、肝付が長年帝国教育会の要務に関係してきた経験が買われてのことであった。当時、肝付の後任として評議員会議長を務めていた根本正(衆議院議員)には、「目下肝付君の他に適任者はなし」とまで言わしめた。結局、後任の会長は沢柳が当選したが、この事例からも帝国教育会における肝付の位置は、極めて重要であったことが見て取れる。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』『教育時論』『教育界』
立教大学大学院日本教育史研究会編『帝国教育会の研究』資料集II、1984年、117〜118頁(「肝付男爵薨去」『水産界』第473号、1922年)。

0