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近衛 篤麿 (このえ あつまろ)
(写真出典:帝国教育会編『帝国教育会五十年史』帝国教育会、1933年)
大日本教育会第8代会長、帝国教育会初代会長。大日本教育会・帝国教育会名誉会員。明治29(1896)年11月27日、大日本教育会名誉会員に推薦・承諾し、翌28日、大日本教育会第十三回総集会にて、辻新次会長から推薦を受け、選挙を経て同会会長に就任した。明治29年12月20日、帝国教育会結成にあたって初代会長に就任し、同月23日の国家教育社(近衛は同月3日に同社総裁に就いている)との合併を実現させた。帝国教育会の幹部選定にあたっては、日下部三之介などの急進的な教育運動家を排除する役割を果たした。明治30(1897)年10月には、明治25(1892)年以来開催されていなかった全国連合教育会を復活させ、隔年毎開催の道筋をつけた。近衛は、これらの改革を推進した後、自らの役割は終わったとして評議員議長・嘉納治五郎に辞表を提出し、明治31(1898)年5月、会長を辞任した。
文久3(1863)年生〜明治37(1904)年没。政治家・学習院長。近衛文麿の父である。従一位・近衛忠房の長子として、京都に生まれた。明治12(1879)年、大学予備門に入学するが病のため一年で退学、以後は和・漢・英学を独習した。明治17(1884)年、華族令制定により公爵に叙せられる。明治18(1885)年、オーストリア・ドイツに留学、明治23(1890)年に帰朝して貴族院議員となり、明治25(1892)年には貴族院議長となった。貴族院議員としての近衛は、藩閥官僚支配および政党の猟官主義に強い反感を持ち続け、歴代藩閥政府・政党に対して厳しい批判的態度を維持した。明治36(1903)年、貴族院議長を辞職し、枢密顧問官となった。
明治28(1895)年、近衛は学習院長となった。学習院長としての近衛は、華族に対し、社会的地位を確立して、政治的社会的に皇室の「藩屏」としての役割を果たすことを望んだ。そのため、近衛は、華族の子弟が外交官・陸海軍人となり、かつ経済的に自立することを望み、学習院の教育組織・財政的基礎の確立に尽力した。また、伊沢修二らの発起から成る学政研究会(のちの学制研究会)に参加し、明治27年から明治28年まで同会会長を務めた。
近衛は、国際情勢に対して関心を有する人々をも組織化した。明治24(1891)年、近衛は東邦協会副会頭に就任したのを皮切りに、明治31年6月には同文会を結成しその会長を務め、同年11月には同文会と東亜会を合併させて東亜同文会を結成した。東亜同文会結成においては、経済・教育・文化活動によって日中有志の連繋を図る清朝援助を主張する同文会系と、中国の自強と革命支援を主張する東亜会系とで対立があったが、近衛が中国の「保全」を目的とすることを提唱して両会合併を実現した。また、明治33年9月には国民同盟会を結成して対露強硬論の先頭に立ち、明治36年には対露同志会の結成にも尽力した。
<参考文献>
帝国教育会編『教育公報』。
近衛篤麿日記刊行会編『近衛篤麿日記』鹿島研究所出版会、1968年。
小股憲明「教育関係議員の背景−学制研究会を中心として」本山幸彦編『帝国議会と教育政策』思文閣出版、1981年、569〜614頁。
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1984年。
菅原亮芳「『教育公報』と帝国教育会」復刻版刊行委員会編『帝国教育』総目次・解説、上巻、1990年、57〜61頁。

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