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安達 常正 (あだち つねまさ?)
(北海道札幌師範学校編『北海道札幌師範学校五十年史』、1936年)
大日本教育会広島県会員、帝国教育会北海道・栃木県会員。明治26(1893)年〜27(1894)年の名簿に名が見られる。明治28(1895)年の段階で退会していたらしい。ただし、その後再入会しており、明治38(1905)年の名簿にて北海道の欄に再び名が見られた。大正元(1912)年・大正4(1915)年の名簿では栃木県の欄に見られる。
?年生〜?年没。富山県士族。広島県尋常師範学校教諭・師範学校長。明治22(1889)年4月、高等師範学校理化学科を卒業後、高知県尋常師範学校教諭に着任した。明治23(1890)年10月、広島県尋常師範学校教諭に転任、明治26(1893)年4月には奏任待遇教諭となった。明治23年、広島県内の作者による漢詩・和歌等を編集し、外山人と号して『海南の尚友』を出版。明治30年には、中石唯待松ほか『小学筆算書』の校閲をしている。
明治31(1898)年1月から明治32(1899)年5月の間、茨城県へ移った大田義弼校長の後任として、広島県師範学校長を務める。この時期は、修身科を担当した。また、明治30年10月の師範教育令公布を受け、師範学校の諸改革を実行した。校名を広島県師範学校とし、庶務細則・会議規定・物品取扱細則・図書取扱規程・附属小学校規則を改定実行し、女子部を設置し、生徒募集を男生徒年二回・女生徒年一回・簡易科生徒年一回(一学級ずつ)とし、随意科として外国語・農業を加え、小学校教員講習科を設置した。また、6月には、生徒心得・賞罰細則・生徒寄宿舎細則を改定実行した。師範学校令期の県師範学校改革実行者として、重要な人物であったといえよう。
明治32(1899)年5月、鳥取県師範学校長に任じられ、広島を去る。その後は、明治35(1902)年〜39(1906)年の間、北海道師範学校長を務め、明治40(1907)年以降は、栃木県師範学校長を務めた(大正4年まで着任を確認)。明治42年、安達編『漢字の研究』(六合館)を出版。明治44年には、板橋凌雲ほか『類字異同弁』(下野新聞社)を校閲している。
安達は、広島県私立教育会においても活躍した。県教育会に関わったのは、明治23年12月の常集会において「何をか精密理学と謂ふ」と題した演説が最初である。明治27年、広島県私立教育会常議員に初当選している。また、明治24年5月の常集会では「磁気と電気との作用の関係」、同年11月常集会では「世界進化説に就いて」、同年10月の第四回総集会では「写真術」と題して演説した。さらに、明治26年4月の常集会では広島尋常師範学校の理学器械を概説し、同年6月の常集会では電話機について実験し説明している。このように安達は、広島県の教育関係者に、県教育会を通して、理学(科学)思想や知識を伝えていた。高師理化学科卒の安達らしい役割である。大田義弼の場合も言えることだが、明治中期における理学思想の普及において、高師理化学科卒の師範学校教員の役割、さらにはメディアとしての県教育会の役割が大きかったことがわかる事例である。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』『職員録』
広島県師範学校編『広島県師範学校第二十五年一覧』広島県師範学校、1899年。
高知県師範学校編『高知県師範学校一覧』高知県師範学校、1906年。
広島県教育会編『広島県教育会五十年史』広島県教育会、1941年。

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