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山本 瀧之助(滝之助、やまもと たきのすけ)
(写真出典:熊谷辰治郎編『山本瀧之助全集』、山本瀧之助氏功労顕頌会、1931年)
帝国教育会広島県会員。山本の入会は、『帝国教育』大正2(1913)年1月号によると大正元(1912)年11月以降である。大正4(1915)年度の名簿にも名が見える。
明治6(1873)年生〜昭和6(1931)年没。小学校教員・実業補習学校長・青年教育推進者。「青年の父」「青年団運動の母」などと呼ばれている。山本は、広島県沼隈郡の農家の長男として生まれた。明治19(1886)年に中等小学を卒業後、好学の志をもって読書をよくし、独学で英語の学習も行っていた。明治21(1888)年、戸長役場雇となったが、村制実施を受けて職を辞し、紆余曲折を経て翌明治22(1889)年に沼隈郡第十四尋常小学校雇(すなわち代用教員)となった。明治24(1891)年、授業生の検定試験に合格、松永尋常小学校授業生に転任した(当時の校長は西川国臣)。翌明治25(1892)年5月には同校准訓導となり、同年9月、千年村常石尋常小学校に着任した。明治34(1901)年、眼病治療を主な理由として上京し、一時教壇から離れた。ところが、翌明治35(1902)年に無試験検定によって広島県尋常小学校準教員免許を受け、常石尋常小学校に復職した。そして、明治38(1905)年、ついに同校の訓導兼校長となり、明治43(1910)年まで務めた。
明治43年、沼隈郡は、郡立実業補習学校を設立した。山本は、その事務取扱となり、翌年には訓導兼校長となった。この頃の彼の明治43年8月1日付の日記には、「小学−尋常小学、中学−高等小学・少年部(青年会の少年部:注白石)、高等教育・成年部(青年会の青年部:注白石)−夜学会・実業補習学校・巡回補習教育・談話会、大学院・壮年部、自治自営」とある。これだけでは意味不明であるが、おそらく山本は(初等)尋常小学→(中等)高等小学→(高等)実業補習学校という学校教育段階を頭に描いていたものと思われる。その念頭には、中等学校へ進学できない多くの少年・青年たちを如何に教育するか、ということを考えていたと思われる。このような構想を抱いて、実業補習教育へと足を踏み入れたのであろう。山本は、大正8(1919)年まで同校校長を務めた。
山本瀧之助を語る上で忘れてはならないのは、青少年教育に関する論説・実践活動である。明治26(1893)年8月、少年喫煙の利害を説いた「喫烟の利害得失」が、『少文林』第10号巻頭に掲載された。これが山本の雑誌投稿が初めて掲載された例だとされる。山本は、その後の生涯を通して、青年教育等に関する論説を極めて活発に投稿することになった。また、明治29(1896)年に主著『田舎青年』、明治35(1902)年に青年団機関紙『沼隈時報』(のち『吉備時報』と改称、大正元年まで刊行)、明治37(1904)年に『地方青年』、明治42(1909)年に著書『地方青年団体』、明治44(1911)年に青年団機関紙『良民』(大正8年まで発行)、というように、活発に著書執筆・雑誌投稿・雑誌発行の活動を続けた。
山本の青年教育活動は、文壇上だけに限られなかった。明治27(1894)年、山本は居村少年会を発足させ小学校卒業生を組織した。また、同年には千年村青年会において、山本の指導下で、夜なべで作ったわらじを軍隊に献納する活動が行われた。明治27年こそ、山本が明確な目的意識をもって行った青年教育実践の始まりの年であろうと思われる。明治32(1899)年には『日本』紙上で日本青年会の結成を提唱した。日本青年会は、『日本』新聞社の後援を受けて成立した結果、500名ほどの青年が加盟して各地で会合がもたれたという。明治36(1903)年、沼隈郡青年会結成に向けて郡長に面会して働きかけるなどした。沼隈郡青年会結成は実現しなかったが、代わりに、在郷軍人会とあわせて千年村青年連合会を開催することができた。
山本の青年教育活動は、地方・中央の行政にも届いていく。明治38(1905)年には、広島県師範学校長・弘瀬時治と面会し、青年教育に関する論説の『中国』紙上掲載を誘因したという。また、同年、広島に視察に来た内相・芳川顕正に青年会のあり方を提言している。さらに、同年8月開催の第五回全国連合教育会には、広島県私立教育会代議員として出席。その直後、帝国教育会機関紙『教育公報』298号に「地方青年団体と補習教育の関係に就て」を寄稿して掲載された。その後、文部省青年団体調査委員嘱託となり、全国地方青年団体に関する文部省の発表の基を作った。明治39(1906)年、常石尋常小学校にて少女たちを集めて「晩学」(夜学と区別)を行った。これを契機に、処女会・少年団・戸主会・婦人会をも設立している。大正13(1924)年には、大阪毎日新聞社の後援を受けて、巡回青年講習所を設立した。これにより、小学校優良卒業者にして中等教育を受けられなかった者に対して講習会を開いた。巡回青年講習所は、昭和3(1928)年まで3府32県にて85回開講、講習人員は4,488名という。昭和3年、財団法人・日本青年館の評議員となった。
山本の帝国教育会との最初の出会いは、明治38(1905)年のことであった。彼の同年2月19日の日記には、「初めて教育公報を一冊見る。」とある。『教育公報』2月号には巻末に全国連合教育会開催の広告があった。その後、県教育会代表として連合教育会に出席し、投稿に至ったことは前述の通りである。ただし、このときの山本は、まだ入会していなかった。入会したのは、大正元(1912)年に帝国教育会主催第一回通俗教育施設講習会講師として招かれた後のことである。その後、青年教育に関する論説をしばしば投稿し、機関紙『帝国教育』を自説の発表の場としている。
山本は、実業補習教育を前提とした独特の教育理念を持ち、中等教育を受けられない青少年のために青年団などにおいて教育実践を行った。山本は、中等小学卒業を最終学歴とし、かつ師範教育を受けずに正教員・校長まで上り詰めた「傍流」の小学校教員であった。このような経歴の持ち主であったからこそ、小学−中学−高校−大学という「正系」の学校教育体系とは別の道を模索した彼の教育理念と実践は、重みのあるものとなっていると思われる。
<参考文献>
帝国教育会編『教育公報』『帝国教育』。
沼隈郡編『沼隈郡誌』、先憂会、1923年。
唐沢富太郎編『図説教育人物事典』下巻、ぎょうせい、1984年、718〜722頁。
多仁照廣編『青年団活動史 山本瀧之助日記』第1〜3巻、日本青年館、1987年。

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