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山本 象六(やまもと ぞうろく?)
(写真出典:多田房之輔編『日本之小学教師』第8巻第96号、国民教育社、1906年)
大日本教育会・帝国教育会広島県会員。正確な入会年は不明だが、明治20(1887)年の名簿に初登場する。後、会への年賀状を毎年欠かさず送付し、大正4(1915)年までの名簿に空白なく掲載され続けている。山本は、会員歴数十年かつ、極めて会への帰属意識の高い会員であった。なお、事情は不明だが、明治末には「毛利川(もりかわ?)象六」と改姓している。
弘化4(1847)年生〜大正13(1924)年没。広島県の小学校教員・視学。幼より藩士の子として育ち、明治7(1874)年に白島学校(後の広島県師範学校)に入学。明治7年12月同校下等科を卒業。明治8年4月、白島学校は広島県公立師範学校となり、同年10月には附属小学校を設置する。山本は明治9(1876)年5月同校上等科を卒業した。山本は、同校下等科初の卒業生9名、上等科初の卒業生16名の一人であり、広島県において正規資格を持つ教員として、初めて養成された教員のうちの一人であった。
明治9年、山本は県師を卒業後すぐに山県郡加計学校に教員として着任したという。明治12(1879)年に有田小学校訓導、途中高宮郡に転じたが明治16(1883)年11月に再び有田小学校へ二等訓導として着任、明治18(1885)年7月には沼田・高宮・山県三郡小学督業(三等教諭扱)に任命された。明治23(1890)年まで、山県郡で教育事業を行っていたらしい。当時学校教員の給料は等級制をとっており、山本のような二等訓導は数少なかった。また当時の小学校教育の実態は、正規の教員養成教育を受けていない教員が教鞭を執っており、教員研修の必要が求められていた。小学校教員の授業法等の改良を企図して設置されたのが小学督業であり、このころの山本はそのような重役を任されるほどの人物になっていたのである。
山県郡を離れた山本の事跡はあまり明らかではないが、明治24(1891)年、沼田郡第二尋常小学校長であったことがわかっている。明治38(1905)年には、呉第一高等小学校長、かつ呉工業補習学校訓導であった。明治42(1909)年まで県下の教育事業に従事し、広島県小学校教員の模範としてしばしば受賞した。明治38年11月には、第一回文部大臣選奨小学教育功績者として表彰されている。
山本は、県内の教育会でも活躍した。明治17(1884)年、広島県内初の教育会である広島県教育協会に入会していることを確認できる。明治22(1889)年には、広島県私立教育会の沼田高宮山県三郡地方理事を嘱託され、明治39(1906)年には呉市地方委員、大正3(1914)年までは沼隈郡地方委員長を務めている。任地が移っても、その地方の責任者に抜擢されていることがわかる。
明治45(1912)年、沼隈郡視学となる。郡視学は、小学督業の流れを汲み、郡に一人程度が設置された役職であり、管轄郡内の学事全般の視察・事務を担当した。晩年は故郷の安芸郡牛田村に隠棲したという。
山本は、白島学校の第一回卒業生であり、長年小学校教員を務めた。小学校教員の中で高い地位にあり、しばしば小学校校長として受賞し、教育会でも責任ある役職に就き、小学督業・郡視学に任命された。山本は、広島県小学教育界における重鎮であり、教育現場・行政の両面において活躍した実力者といえよう。
<参考文献>
積善館支店編『広島県教育関係者年賀名簿』、1905年。
内閣編『職員録』乙、印刷局、1912年。
広島県師範学校『広島県師範学校一覧』、1916年。
名田富太郎編『山県郡教育誌』、広島県山県郡教育会、1943年。
平田宗史『明治地方視学制度史の研究』、風間書房、1979年。
『広島県教育協会雑誌』、『広島県私立教育会雑誌』、『芸備教育』、『大日本教育会雑誌』、『教育公報』、『帝国教育』、『日本之小学教師』。

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