road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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人間疎外の時代に

17歳の高校生らが、83歳のお年寄りの体に何発も花火を打ち当てて大やけどさせたというニュースをみる。
どうにもこの事実、そこはかとなく暗く、そして限りなくおぞましい。
暗澹たる気持ちを抱えたまま私は思考する。

いまや哲学は、こんな現実に対しても顔をそむけずに面と向かいその意味を解き明かす力をもたなければ、存在意味すら持たぬ時代となったように思う。

考えるためのヒントをK・マルクスの「人間論」・「疎外論」が与えてくれているようにずっと思ってきた。
以下、私ながらの解釈。

人間は、労働することによって、労働の対象に、その完成した姿に人間性の豊かさをあらわしてきた。
それは「人間力の外化」ともいえるものであり、人間という類の本質とも関わる人間の営みである。
人間はその力を、外化することによってしか発展させることはできなかったのだ。
しかし、外化された人間の本質は独自に発展をとげる。
そして、当の人間の圧倒的多数が労働者として、外化されたちから(=資本)に支配されるまでに展開されるにいたる。

これが人間の疎外だ。
そもそも人間の本性が発現したものによって人間が支配され空虚にされていくのだ。

現代は、人間が根底から徹底的に疎外された状態にいたった時代ともいえるのだろう。
精神的に空虚になり、人間的な力と人間性の本質を失った存在としての人間。
この国では特にいっそう鮮烈に現象化しているのではないだろうか。

どのようにしてこの矛盾は展開されるのだろうか?
人間の外の世界において対象として展開された富の豊かさ。
それに対して外部の世界が豊かになるほど進む、人間の内部の世界(精神)の空っぽさ。

やはり人間が、対象的に展開しますます豊かになった富を、再び自らのものとすることにしか矛盾が止揚される場所はない。
その時のために人間の疎外はあったのだ。

疎外されてからっぽとなり、お互いがきり離された人間たちが、ぎりぎりのところで再び手を結びあい、外にあった世界を自分の豊かさとして取り込むこと。
自分のために、自分のものとして所有するという一面性を超えて、ただ単に人間として豊かになるために享受すること。

10代の子どもに何かを要求する前に、まず自らが率先して行動すべし。
10代の若者の心の問題として現れて進行している事態の本質を深くうけとめ、生き方を問い直す大人たちが増えること。
それこそが歴史の要請なのだろうと思う。
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タグ: マルクス 疎外 哲学
投稿者:eudaimonia

カント「哲学を学ぶとは?」

高校に倫理という科目がある。
思想・哲学・宗教などを学ぶ。
この科目を好きだという人間はあまり多くないようだ。

高校時代、僕は「倫理」が大好きだった。
朝早く登校して教室の黒板を占拠して、カントの名言などを書き連ね、
それをじっと眺めて思索にふける。
もちろんたいした思索など出来なかった。
が、その時間は僕にとって至福のときだった。

何かを理解したり覚えたりするだけではない。
学んだことをきっかけにして、自分なりの考えを打ちたてようと必死で考える勉強。
それが僕にとっての倫理だった。
それは、無味乾燥な受験勉強から一番遠いところにある存在だった。

カントは「純粋理性批判」の中で次のように言っている。

「人は哲学を学ぶことはできない。
哲学することを学ぶことができるだけである。」

真理を探究する学問としての哲学。
たとえ学ぶ主体が10代であったとしても・・
カントが日本の予備校の講師だったらさぞかし面白かっただろうな・・

カント「哲学を学ぶとは?」のお絵かき41107




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タグ: カント 哲学 倫理
投稿者:eudaimonia

主と奴の弁証法

勝者と敗者。成功者と成功者に使われるものたち。
今の時代、特にこの国ではますますくっきりと分かれて存在していますね。

松下幸之助さん流にものを考えてみよう。

一握りの、人一倍の努力とひらめきを持ち合わせた人たちだけが、成功者となり地位と名誉と大金を手にすることができるが、平凡な大多数の人たちはたとえ毎日普通に一生懸命に働いたとしても、搾りとられる現実がまっているだけだ。

こういう俗論には、まやかしがたくさん含まれているけれども、それはさておいて。
ヘーゲルが面白いことを言っているのでそれについて少し考えてみましょう。



主と奴の弁証法のお絵かき21970


古代のギリシャやローマには、奴隷と奴隷主がいました。
へーゲルは「承認をめぐる闘争」の過程で、死の恐怖にたじろいで、相手への従属を受け入れて命を守ろうとしたものが「奴」となり、死の恐怖をものともせず、自分の栄誉や尊厳などという精神の価値を守り、そのために生き抜いたものが「主」となった。
そう述べています。
でも、ヘーゲルはそれだけでは終わらない・・
実はこの関係の中に、自立した自由な(近代的な)「個人」が形づくられていくきっかけがあると見たのがヘーゲルの最高におもしろいところなんです。
しかも、自立した自由な個人となる可能性を見たのは「主」ではなく「奴」の側なんです!!!


その理由は?

自由で自立的な「個人」として承認されるためには、狭い欲求やわがままを克服し世界に開かれた自分のありかたを形成する必要がある。それを、「奴」は労働を通じて実現してゆく。対象を直ちに消費せず、欲求を一時抑制し、労働によって加工し欲求を高次なものに高める。(それは意志を必要とする)
また、奴は主のために労働するのであり、自分の狭い欲求から解放され、広い立場に立つ。
それに対し、栄誉や尊厳といった精神的な価値に優れた人たちだったはずの「主」は、
そのあり方から必然的に、精神的な価値の発展から取り残されていくわけです。
こうして「主」と「奴」は逆転する。

「奴」は「主」との対立において自らを新しい時代にふさわしい人格に高める。
それは人類の種としての進化・発展の一過程といえるのでしょう。

冒頭にふれた現代の主従関係ともいえる「資本」・「労働」の関係。
そこにも同じことを私たちは発見することになるでしょうね。

一見すると、いまはみずぼらしい「奴」のようなあり方だが、未来のあたらしい人類となる準備がそこでなされているわけです。そのあたらしさとは何か。それは別の記事で。
われわれ庶民は、現代のマネーゲームに狂奔するようなお金持ちたちがどうあがいても手に入れられないものを、日々手にしているか、手にする可能性をもっているのです。

*この記事は哲学サークルの仲間でもあるmurataさんのブログの記事に触発されて書いたものです。参考文献「ヘーゲル用語事典」
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投稿者:eudaimonia

アントニオ・ネグリ

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「現代思想」2008・5月号を、昨日図書館帰りに上前津の古本屋にて購入。
アントニオ・ネグリ特集号。

アントニオ・ネグリ、父は彼が幼少の頃にファシストによって殺害される。
共産主義者だった父は、イタリア共産党の創設に関わった人物であった。
自身もまた共産主義者となり、波乱万丈の人生を歩む。

特集は、読み始めるとのめりこんでしまい、時間の経過も周辺の出来事も一切消えてしまうほど集中できる興味深い内容だった。

読み、そして考える。その繰り返し。

今のところの僕なりのネグリへの評価。彼自身の著書も読まぬままおこがましいが・・
産業資本主義から認知資本主義への移行、それに伴う価値論・搾取論の尺度の変化・・などという議論はあまりにも大雑把で現状の一部を反映しているとはいえ、やや観念的に思える。
(それは「資本論」などマルクスの緻密な現状分析に基づく立論などと比較すると特に感じてしまうことだが・・)

ただ、ネグリが提起した「マルチチュード」という変革主体の把握、そして「私」としての資本と「公」としての国家からの「共」の奪還という戦略目標に激しく共鳴した。
マルクス流にいえば、グローバル資本主義は日々、自らの墓堀人であるマルチチュードを大量に生産している。そして、僕もまたそのマルチチュードの代表的な一人なのだ。

「マルチチュード」は、互いの差異を保持したまま「共」を構築できる社会的行為者として措定されている。違ったままでいい。同一化される必要はない。
さらにネグリは、周縁を周縁のままで肯定する。その少数者に、周縁性に、「圧倒的多数の要求」の潜在的体現をみる。
女・子供・移民・フリーター・ホームレス・・これまで蔑まれてきたものの存在価値を高らかに歌い上げる。

逃走を繰り返した人生に後ろめたさを感じながら、教育の世界でフリーターのような人生を歩む僕に、「おまえこそがマルチチュードであり、世界を変革する主体にふさわしい」とメッセージを与えてくれるネグリ、彼が生きているうちに是非ともお目にかかり、お話をしてみたいものである。






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投稿者:eudaimonia

ポスト・ポストモダンの思想

現代思想は、マルクス理論の一面的な理解に始まり、それへの二項対立的な批判から発展してきた。

第一にそれは、マルクス理論の客観主義への一面化とそれに対する主体論の反撃として。必然性と偶然性の二項対立として。
下部構造による上部構造の規定、生産力=生産関係の矛盾による社会制度の発展の法則として定式化されたマルクス主義。「正統派」マルクス主義者によって、このような側面が過度に重視されていったことへの反動として登場したのが、たとえばルカーチであり、たとえばサルトルだったのであろう。
彼らの説く「主体性」は、その意味で歴史的な価値をもつ言説となった。

ところでマルクス自身は決して「主体」を軽視したわけではなかった。
たとえば、「経済学批判要綱」において彼は、「主体としての労働者」の展開過程を問題としているし、「資本論」は、壮大な労働者の主体形成の物語として読み解くことができる。マルクスは人間にとっての自由や人間性の発展が、自己に突きつけられる歴史的課題を主体として乗り越えるところに存在するという見地にたち、客観性(法則性)が主体の自由な行動を通じて実現することを見通していた。


第二は、個と全体あるいは、多様性と統一性をめぐる二項対立である。
20世紀型労働運動や前衛党における全体性や統一性の過度の重視が、多様に自己を展開し個性の自由な発展を求める人々の反発を買うこととなり、そうした経緯がドゥルーズをガタリをあるいはアントニオ・ネグりを出現させ、スピノザルネッサンスを呼び込んだ。
しかし、彼らの説く「差異」「複数性」「個体性」「広がり」といったことの価値をマルクス自身は決して視野の外には置いていなかった。
資本主義の発展の内部で進展する個の自由で多様な展開と個性の全面的開花のための客観的条件の変化を具体的に描き出し、それが現実化する社会として共産主義社会を展望していたのである。

このようにしてマルクスを再把握してゆくことは、ポスト・ポストモダンの思想(自然と人間・社会発展と主体形成の統一的把握)を我がものとする過程であり、そうしてこそ「ポストモダン」の意味もあったといえるのだろう。

文責、eudaimonia
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投稿者:eudaimonia
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