road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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2009年の最後に

この一年にあった出来事と、一年以上前にあった出来事との分別が簡単にはできにくくなった昨今の自分。
よく思い起こして今年を振り返ってみた。

年老いた母への想いを歌にして唄ったこと。
たくさんの想いを曲にして表現したこと。
逆に、ある人が僕のことをイメージして詩を創り、それがCDとなり、たくさんの人がそれを聴いてくれていること。

僕に叱られたことが小学校生活最高の思い出だった・・というU君。
忘れられない贈り物をくれたK君。
登校拒否していたくせに、僕の最後の授業のときに初めて教室に現れたA君。
この学校で一番好きな先生だと言ってくれた「問題児」E君。
そんないろんな子たちとの格闘が心に思い浮かぶ。

充実した一年だったような気がする。
だが、その中にいったい自分のどんな成長があったのか・・
それは、もう少し時間をかけて確認していきたいことだ。

今年このブログを読んでいただいたみなさんに、ありがとう。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年なくなった名青の林学先生・ひらき座のまっさんのご冥福を祈りながら、今年最後のブログを締めくくります。

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投稿者:eudaimonia

父の言葉

今は亡き父は、ある日高校生だった僕にこんな話をした。

「世界を変える力をもつのは、キリスト教とマルクス主義だ」

家では口数の少なかった父だったから、その言葉は深く心に刻まれた。

数年後、父の言葉をあるマルクス主義者に伝えた時、
彼は、苦味を含んだ笑いを返してきた。
おそらくは、キリスト教をマルクス主義と並んで評価する考えを小馬鹿にしたのだろう。こうゆう類のコミュニストにはこれまでたくさん出会ってきた。

父の言葉をあるクリスチャンに伝えたこともある。
彼女は、言葉の中身も、父が伝えたかっただろう思いも、
真剣に受け止めてくれた。
それがとてもうれしかった。そんな記憶がある。

僕自身はマルクス主義の世界観を持って生きるようになっていった。
父からは何も知らされていなかったが、父もまたレッドパージと闘い、
労働組合運動の先頭にたって闘うマルクス主義者だったということを
死後になって知る。
そうした父の冒頭の言葉を、今僕は、父の思想の柔軟性と人間的な包容力を感じさせる言葉として受け止めるようになった。

30年ほど前、皮肉にもクリスマスの日に倒れ、かえらぬ人となってしまった父に、
2010年を迎えようとしている今、コミュニストもクリスチャンもその外のどんな考え方をもつ人も、力を合わせて平和のたたかいを、人々の生活と命を守るたたかいをすすめている姿を見せてあげたいと切に願っている。


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投稿者:eudaimonia

ポスト・ポストモダンの思想

現代思想は、マルクス理論の一面的な理解に始まり、それへの二項対立的な批判から発展してきた。

第一にそれは、マルクス理論の客観主義への一面化とそれに対する主体論の反撃として。必然性と偶然性の二項対立として。
下部構造による上部構造の規定、生産力=生産関係の矛盾による社会制度の発展の法則として定式化されたマルクス主義。「正統派」マルクス主義者によって、このような側面が過度に重視されていったことへの反動として登場したのが、たとえばルカーチであり、たとえばサルトルだったのであろう。
彼らの説く「主体性」は、その意味で歴史的な価値をもつ言説となった。

ところでマルクス自身は決して「主体」を軽視したわけではなかった。
たとえば、「経済学批判要綱」において彼は、「主体としての労働者」の展開過程を問題としているし、「資本論」は、壮大な労働者の主体形成の物語として読み解くことができる。マルクスは人間にとっての自由や人間性の発展が、自己に突きつけられる歴史的課題を主体として乗り越えるところに存在するという見地にたち、客観性(法則性)が主体の自由な行動を通じて実現することを見通していた。


第二は、個と全体あるいは、多様性と統一性をめぐる二項対立である。
20世紀型労働運動や前衛党における全体性や統一性の過度の重視が、多様に自己を展開し個性の自由な発展を求める人々の反発を買うこととなり、そうした経緯がドゥルーズをガタリをあるいはアントニオ・ネグりを出現させ、スピノザルネッサンスを呼び込んだ。
しかし、彼らの説く「差異」「複数性」「個体性」「広がり」といったことの価値をマルクス自身は決して視野の外には置いていなかった。
資本主義の発展の内部で進展する個の自由で多様な展開と個性の全面的開花のための客観的条件の変化を具体的に描き出し、それが現実化する社会として共産主義社会を展望していたのである。

このようにしてマルクスを再把握してゆくことは、ポスト・ポストモダンの思想(自然と人間・社会発展と主体形成の統一的把握)を我がものとする過程であり、そうしてこそ「ポストモダン」の意味もあったといえるのだろう。

文責、eudaimonia
3
投稿者:eudaimonia

K.マルクスとポストモダン

昨晩おそくから今朝にかけて、友人2人と哲学に関する議論をした。
深夜におやじたちがファミレスで、久々に熱くなったひと時だった。

主な論点は、現代スピノザ主義(ポストモダン)に対する評価。
ヘーゲル→スピノザは反動なのか?
ポストモダン。とりわけドゥルーズは、アンチ・マルクスなのか?
ポストモダン。とりわけドゥルーズが、新自由主義をもたらしたのか?

僕の見解は否。友人は肯。もう一人は中間的立場であった。

ついさきほど、興味深い記事を発見したので紹介しておきたい。

ドゥルーズ自身が生前から「最後の本」と語っていた『マルクスの偉大さ』について、ここ半年ほどで得た情報をご紹介したい。ご承知の方も多いと思うが、ドゥルーズはディディエ・エリボンの質問に答えて、こう語ったという、「マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう」。これは、1995年11月15日(ドゥルースが自死したのは同年同月4日)付けの『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』に掲載されたインタビューからの引用であり、インタビューの抄訳は、『批評空間』第II期9号(1996年4月発行)に掲載されている。もともとは1994年に行われたインタビューだそうだ。
以上、「現代思想の最前線」/ 五月(ごがつ)
第28回 ドゥルーズの遺著『マルクスの偉大さ』を求めてより

ドゥルーズがアンチ・マルクスではなかったことだけははっきりしているようである。
「偉大」であるとあがめるマルクスに対し、あるいはマルクス主義に対して、彼はいったい何を加味しようともがいていたのであろうか?
次回以降の記事で考察していきたい。




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投稿者:eudaimonia

A.Uへ

あの頃の君は真っ暗な闇の中でもがいていた
うまく呼吸ができなくて
うまく立ち上がることができなくて

あの頃の君は深い海の中でおぼれていた
うまく呼吸ができるように
うまく泳ぐことができるように
僕に必死にすがろうとしたね
こんなに微かな力しかもたないこの僕に

寒さにふるえ凍えていた小さな君を
どうにかしてあたためるために
その凍てついた心をどうにかしてとかすために
君ときみの大切な家族を守るために
あの頃、僕はただただ必死だった

いつからか、あの時の君の苦しみが
君のやさしさに変わっていった
あの時の君の悲しみが
君の強さに変わっていった
君は、君の自分自身とのたたかいを
愛へと変えていった・・・

君のもっていたものの豊かさに驚かされた僕
苦しみもがいた分だけ成長してゆく君の姿は
まばゆいばかりだった
君に必要だったほんの少しの支え
与えるだけで何物をも求めない愛
今は、自分がその場所にいられたことを
ただただ喜び、そして感謝したい
未だに、こんな弱々しく、ちっぽけな自分の
生きてきたことの証をくれたのだから
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投稿者:eudaimonia
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