road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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街が文化を育む

名古屋市の中小田井にある岩倉街道は歴史的な景観を今に残している。

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毎年、この街道の一角にある寺の構内で、秋祭りが行われている。
僕は今年はじめて祭りに参加した。地元の方のパレードがあるほか、その寺で音楽祭のような催しがあった。
とても天気の良い秋晴れの日の夕刻。寺のあちこちで風に揺れるコスモスにも風情があった。

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日の暮れる頃、「なつかしバンド」によるベンチャーズナンバーの演奏を聴いた。秋の風が気持ちよく爽やかで、やがて空に星がちらほらと姿を見せる。「パイプライン」や「朝日のあたる家」の演奏が心地よさを何倍にも増幅する。ビールのおいしさもまた、何倍かに・・
それはそれは、素敵な演奏会だった。

ひるがえって、わが町は?
幼い頃から親しんできた駅の東側の商店街は影も形も無くなった。
愛着のある商店街をつぶしてできるのは、生涯学習センター&スーパーのチェーン店&駅前高級マンション。
その生涯学習センターには立派な音楽スタジオが三つもできるという。
それはそれとしてうれしくないわけではない。だが、この街で本当に音楽を楽しみたいのであるならば、この街の歴史や文化や人々の街で営む生活のうえに、それがなければならないのではないだろうか?

中小田井のまつりは、そんな大切なことを僕に教えてくれた。


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投稿者:eudaimonia

迷いながらも自分の道を生きる

3年生のK君。いわゆる「問題行動」の激しい子だ。
授業中の立ち歩き、悪ふざけ、クラスメイトとのトラブルetc・・
だから、可能な時はずっとそばについてやる。やるべきことを提示し、見守り、できたことを認め賞賛する。そんな時の彼は見違えるようになる。
何かに集中する為に、あるいは対象に自分を没入する為に、誰かの自分を見守るあたたかな眼差しが必要なのだ。
どのような生い立ちが、どのような家庭環境が彼をそうさせたのか?
担任でもない、情報もない僕には推測のしようもない。
だからこそ対応も混迷することが多い。

一学期、ある日の音楽の時間、彼は音楽室に移動せずにひとり教室にいた。
いろいろと説得しても彼は動こうとしない。苦手で嫌いな授業なのだろうなと容易に想像はついた。僕は説得をあきらめてこう言った。
「音楽室で待っているよ。来ると信じているからね。」
実際、彼がやって来ることを僕は信じていた。何故なら、教室でたったひとりで何もしないでいることを彼が求めているわけでもないことはわかっていたし、何よりも「信じてもらう」ことに彼は飢えていると僕は知っていたからだ。

その音楽の授業が終わり、最後まで音楽室に残っていたのはK君だった。
「自分から音楽室にやってきたね、うれしいよ。」そんな思いで声をかけようとした。
その時、彼は、自分のリコーダーを分解して床にバラバラに散らかした。
瞬間、少し頭にきた僕は、「そんなことはいらんことだろう!」と語気を強めて言った。
すると彼は突然、何かをわめきながら僕の眼前から逃げ出していった。
「どうせおいら、いらんのだろ?」音楽室に並んだ木琴などの楽器の背後からそんな言葉が聞こえてきた。
しまったと思った。言葉が誤解されて受け取られたことに気がついた。
僕は、冷静をつとめて正直な思いを伝えた。
「ちがうよ、K君がいらない子なわけないだろう。」「君はとっても大切で、なくてはならない子なんだよ。」と。

その言葉を真実と感じてくれたのだろうか。
翌日、社会を受け持つ僕の荷物を教室から職員室まで運ぶのを手伝ってくれた彼。
「先生、おらの今の気持ちわかる?」って聞いてくる。
僕が「何でそんなこと聞くの?」って言うと、「気持ちは伝えなくてはわからないものだよって(担任の)先生に言われたんだ」と答える。
そして「先生、おら、がんばるよ。」という。

もちろん、その後も紆余曲折、劇的に何かが変化したわけじゃない。
ただ、K君がたしかに自分自身の道を歩き、迷いながらあがきながら、自分自身になる道を探して必死に生きていることだけは確かだろうと思う。

ゲーテは言う。
「自分自身の道を歩いて迷っている子どもや青年の方が、他人の道を正しく歩いている人々より、私には好ましい。前者は自分の力か、あるいは他人の指導によって、自分の性質にかなった正しい道を見出すと、決してその道を離れることがない。これに反し、後者は他から加えられたくびきを振り落として、無制限な自由に身をまかせる危険にたえずさらされている。」
(つづく)







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投稿者:eudaimonia

マルクス「経済学哲学草稿」

誤解されてきたマルクスの疎外論

一般に、原本を正しく読まず、先入観でマルクス疎外論を自己流に解釈している例は多い。

「経済学・哲学草稿」の思想(いわゆる初期マルクスの思想)は、簡単に言ってしまうとこうである。つまり、資本主義経済というものはお金の蓄積によって“カネの論理”によって動いていて、このような社会は人間の自由な創造行為としての労働を「疎外」してしまう、ということである。ずいぶんと乱暴な言い方であるが、要するにそういうことである。
(佐々木信男「ひとりよがりのマルクス論」より)


よって、労働者を疎外状態から解放するために、資本主義を打倒しなければならない・・・などと曲解はつづく。実はこのような主張はマルクスによって批判にさらされるプルードンなどが主張した考え方だ。(国民文庫P114)
マルクス自身の思想に迫ろう。正しくはこうだ。

「(私的所有は)一方ではそれは外化された労働の所産であり、そして第二にそれは、労働がそれを通して外化する仲介手段であり、この外化の実現である・・。」(P114)

つまり、私的所有(その完成体としての資本主義経済)が疎外を生み出したのではなく、逆に労働が自らを「疎外」するために、私的所有(資本主義経済)を必要とし、生み出したということなのだ。
マルクーゼは、マルクスによるこのような「現実的事実の意外な観念論的転倒」についてこう記している。
「このように書いているのはマルクスであってヘーゲルではない!このような一見転倒しているかにみえるもののなかに、なによりもまずマルクス理論の決定的発見の一つが表現されている。」(「初期マルクス研究」)

疎外の人類史的意義

ところで、労働はなぜ自らを「疎外」する必要があったのだろうか?それは人間にとってどんな意味をもつことだったのだろうか?
マルクスは次のように問いを投げかけている。

「どのようにして人間は、彼の労働を外化し、疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」
第一手稿にはこの問いに対する直接の答えは述べられていない。だが、こんな意味深い言葉が先の問いに続いている。

われわれはすでに課題の解決のために多くのものを獲た。というのは、われわれは私的所有の起源についての問いを、外化された労働が人間の発展行程にたいしてもつ関係にかんする問いへと変えたのだからである。・・ひとは私有財産について論じる場合には、人間の外にある事物とかかわりあっているものと信じるが、労働について論じる場合には、直接に人間自身に関わりあっているからである。この新しい問いの出し方は、すでにそれの解決を含んでいる。」
(P116)


私的所有の主体的本質を労働として把握(P135)することによって問題の立て方のコペルニクス的な転換がうまれる。
人間の類的本質としての労働が、自己を否定して発展する過程として私的所有を把握することができれば、「否定の否定」としての労働の自己奪還の意味も、私的所有の止揚としての共産主義の意味も自ずから明らかとなるはずだということだろう。(*)

(*)ちなみに、マルクスは「民主主義的にせよ専制主義的にせよ、政治的な性質の共産主義」を「それはなるほど私的所有の概念を把握したけれども、まだその本質を把握しなかった」「私的所有によってとらわれており、感染されている」共産主義であると決めつけている。

さて次に、「どのようにして人間は、彼の労働を外化し、疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」というマルクスの問いに対する自分なりの答えを述べてみたい。

「対象化はすでにそれ自身の中に物化への傾向を含み、労働はすでにそれ自身のなかに外在化への傾向を含んでおり、したがって物化と外在化とは単に偶然的な歴史的事実ではない。」
「つまり人間の発現ははじめに、まず疎外に向かう傾向をもちかれの対象化は物化に向かう傾向をもつのである・・」
「人間は生命の発現の総体性に欠けており、自分の存在を現実化しうるためには、自分に前提され、対置されている対象の中で発現することが必要になる。人間の実証や確証はかれに対立している外在性をわがものとし、外在性の中に身を移すことの中にあるのだから、人間の存在の中にすでに外在性があたえられている。」(マルクーゼ前掲書)


実は、疎外の基礎は人間の本質の中に組み込まれているのである。
人間は労働によって自分自身を生み出してきた。労働こそ人間の本質を規定するところのものである。他方、労働とは対象化であり、自己をひとつの対象のうちに固定することである。対象に自分を預け入れる以外に自己を発現することができないという人間の本質がもつ矛盾。この矛盾の展開、対象化→外在化→疎外(対象的世界においては生産物→商品→資本)という自己展開。それこそが歴史を規定してきたといえるのではないだろうか。

では、「疎外」の人間発展史上の意義とは、何だろうか?

「・・・産業の歴史と産業のすでに生成した対象的現存在とは、人間的な本質的諸力の抜かれたる書物であり、感性的に眼前にある人間的な心理学である。・・
通常の、物質的な産業のうちにわれわれは、感性的な外的な、有用な諸対象の形式、疎外の形式のもとに、人間の対象化された本質的な諸力をわれわれの眼前にもっている」(P156)


人間の生の発現は「外の世界」において展開する。人間的な富が、非人間(物化された世界)において蓄積されていく。私的所有の純化された形態である資本主義においては、あらゆるくびきを打ち破って人間の労働の対象的に展開された富が蓄積されていく。普遍的に発達しつつある人間の諸能力が、物象化された鏡のむこうの世界で開花する。対象的世界において、人間が自分自身を生産する過程が進行する。
そうして新たな獲得が準備される。

「人間は彼の全面的本質を、ある全面的なしかたで、つまりある全体的な人間として、わがものとする」(P151)
「現に生成しつつある社会は、私的所有とその富ならびにみじめさとの運動をとおして、この(人間的感覚の)形成のためにすべての材料を眼前に見いだすように、同様に、すでに生成した社会は人間を、彼の存在をこの富全体において生産する、すなわち、すべてのかつ深い感覚をもった人間を、その社会の恒常的な現実として生産する」(P155)


否定の否定としての獲得は、こうして、原始共同体にみられるような限定的な獲得=「貧しく要求のない人間」の獲得ではなく、全体的・普遍的に人間的富をわがものとする獲得であり、労働による全面的な人間の自己実現である。(*)

(*)マルクーゼは言う「人間の生の発現はかれの生の外在化であり、人間の現実性はかれの現実性剥奪であるということの感性的表現にすぎないように、私的所有の積極的止揚は、単なる経済的止揚にとどまらない。すなわちそれは人間の全現実を積極的にわがものとすることである。」
「資本主義の事実状況の中では単に経済的あるいは政治的危機ばかりでなく、人間存在の破局こそが問題になっているのだ・・」
マルクーゼのこの提言は、最近の辺見庸氏の言説と重なって聞こえてくる。


26歳のマルクスはすでに、疎外形態そのものの中から疎外を止揚する力が生じることも見抜いており、資本主義の進展=人間の疎外の進展=人間性の危機の深化=人間の全面的な発達の可能性の拡大として躍動的に現実を把握していたのである。

一般にはあまりにも貧困なマルクス疎外論の理解に対して、読めば読むほどにマルクスが発見した諸事実、描いて見せた人間の発展史の全貌は、壮大で豊かであることがわかる。

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投稿者:eudaimonia

否定されたのは、麻生なのか?コイズミなのか?

コイズミ構造改革こそが、今日の生活破壊を招いたことは明らかだ。
身近なところで自殺者が続出している。「痛み」に耐えきれなかった人々の慟哭を、どう受け止めたらよいのだろう?

僕の住む県は「県民の皆様へ 救急医療のご案内」などというパンフレットを作成、配布している。その内容を端的にいえば、「医師不足のため、この地域の救急医療体制は危機に瀕している」というものだ。決してこの県だけの現状ではないだろう。
ところで、医師不足は自然に発生した出来事では決してない。政治的に、意図的に作り出された現実である。それは、医療関係予算の削減をねらい、大学医学部の定員削減をすすめたコイズミ構造改革による痛み以外の何者でもない。

選挙期間中、あるテレビ番組で沖縄のタクシー運転手さんたちの生活が紹介されていた。一日12時間以上の労働をしてもその対価はほんのわずかなもの。なんと、年収にして200万円にしかならないというのだ。子どもたちの教育費や家族の生計をどうしていけばいいのかと苦悩する運転手さんたちの姿が胸に迫ってきた。
いったい何が、彼らをここまで追い込んだのだろうか?
その原因はあまりにはっきりしすぎている。2002年の規制緩和。タクシー大幅増車の原因をつくったコイズミ構造改革による痛み以外の何者でもない。タクシーが増えすぎてタクシー労働者が生活できなくなってしまったのだ。

さて、今回の選挙で否定されたのは「コイズミ構造改革」なのか、それとも「自民党の旧来からの政治のあり方」なのか?僕はあくまでもそこにこだわりたい。
何故ならば、そのことを抜きにして、今回の選挙結果への評価はありえないと考えるからだ。

報道されたごくわずかな資料を分析してみよう。
産経FNS世論調査によると、「自民党の敗因」は
「麻生の判断や言動」=29.5%
「麻生以前の首相の判断や言動」=19.6%
「個々の候補者の政治姿勢」=10.3%
「党の実績への評価」=28.9%
などとなっている。

麻生首相が否定されたことは間違えないが、コイズミへの評価は微妙だ。
「麻生以前の首相の判断や言動」=19.6%
とあるが、麻生以前には安部もいるし福田もいるからだ。

そこで、別の質問を見てみることにしよう。
日本の首相に一番ふさわしいのは誰か?これは現職の国会議員限定の問いである。
結果、桝添13.1%(2位)、石破5.5%(3位)、石原伸晃4.9%(5位)
などの名前が上位にあげられている。いずれもコイズミ「改革」を推進してきた連中である。
少しづつ明らかになってくるようだ。

次に、同じ質問。今年4月の調査結果から。
コイズミ14.8%(1位)、桝添9.0%(2位)

結論。
残念ながらこの国の国民は、未だにコイズミ構造改革を断罪していないのではないのだろうか?(ついでにいえば、コイズミによるイラク戦争支援についても同様であろう)

さて、痛みを感じているはずの国民はどこへいってしまったのだろう?


(9.14原文を編集、改訂版)









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投稿者:eudaimonia

テレビ報道への違和感

民主党新政権の政策を分析するテレビ番組を偶然見た。
製造業の派遣禁止という政策が話題になったところで、番組のキャスターは
「それでは労働力が流動しませんね」
と眉をひそめながら語っていた。
番組のコメンテーターもまたその発言に呼応するように、
「そんなことをすれば、日本のものづくりを維持することができなくなりますね。」
などと発言していた。

「あなたがたご自身が流動化して、どこかに流されてはいかがか?」

と僕は心の中でつぶやいていた。

大企業の資本家やら経営者やらの側へと自身の視線をぴったりとあわせる彼ら。
流動化され動かされる側。働いても働いても現在はおろか未来への希望のかけらすらもみえない側への、背筋も凍るほどの冷たい眼差しに対して戦慄を覚えた瞬間であった。



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投稿者:eudaimonia
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