road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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続々・へたれおやじたち

(前回記事のつづき)

へたれおやじは民主的といわれる労働組合の中にも生息する。
マルクスもさぞや驚愕する現実だろう。

フォイエルバッハに言わせれば、「困窮」に悩まない、したがって「根拠のない存在である」へたれおやじだ。
だが、組織の中では「我こそが神さま」である。(注1)
発言力と周囲を威圧する力さえあれば、自らに批判がくることはない。

表では「非正規職員の組合参加が必要」・「非正規労働者の運動が求められている」
といいながら、その裏では「正規にならなければ何をやっても意味がない」とひとしきり僕に説教を垂れる。
他のメンバー(正規)との差別も露骨だ。
配布物でも、○○さんどうぞ、○○さんどうぞ、そのあとに「おい」といわれて配られる。
あげくの果ては、「お前、髪を切れ」。
他人の身体的表現の自由への露骨な干渉。
その同じ口が「国歌斉唱の強要」を糾弾する。

そして、「お前のことでみんなが言いたいことを代わりに言ったんだ」
との侮蔑発言。
究極のへたれ野郎だ。だがだれも背かない。

後に、謝罪を求める抗議を文書でしたが、未だに返答はこない。
ある人に伝え聞いたところ「笑っていた」という。
民主主義的人格とはほど遠い人物による民主主義団体への支配。
他の人間の従順さがそれを許容する構造。どこかでみた姿だ。
「力の論理」がすべてを支配している。そのへたれおやじに、究極まで疎外された人間の姿がある。

正規労働者が苦境にたつことや、「持てる中間層」の崩壊を期待しているのではない。
どのような経済的立場にあっても人間的矜持、人間の本質としての連帯の心を失わず、
行動する人格を数々知っている。
必要なのは、求められているのは、他者の困窮を、他人の苦しみや悩みを自分のことのように感じ、繋がりあおうとする心だ。

最後に、K・マルクス「経済学・哲学草稿」から美しい一節を。

「共産主義的な手工業者たちが団結するとき、・・・彼らはこの団結によって一つの新しい要求、仲間であることの要求を我がものとするのであって、手段であると見えるものが目的となっている。・・・タバコを吸い、酒を飲み、飯をくう等々はもはや結合の手段すなわち人々を結びつける手段としてあるのではない。仲間であること、一つに結ばれていること、楽しい談話(これもまた仲間であることを目的としている)が、彼らにとっては充分なのであり、人間が兄弟同士であるということは彼らにとっては空文句ではなく真理であって、労働によって堅く結ばれた彼らのすがたから、人間性の高貴さがわれわれにむかって光をはなつ。」


注1)「神さま」を嫌っていたフォイエルバッハなので、「だが」ではなく「だから」が正しいかもしれない。
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タグ: 非正規 組合 困窮
投稿者:eudaimonia

続・へたれおやじたち

繁栄するもの、富めるものの享楽。
おごり高ぶる魂=へたれおやじども。

それそのものが、他方における衰退・貧しさ・欠乏・そしてあらゆる人間悲劇のうえに現存できるもの=へたれおやじたちの楽しい宴。

「困窮に悩む存在だけが必然的な存在である。
・・困窮のない存在は根拠のない存在である。
悩むことができるものだけが生存に値する。
・・悩みのない存在は、感性のない、物質のない存在である」

(フォイエルバッハ「将来の哲学の根本問題」より)

マルクスが想定していなかった現実がこの国の今にある。
労働者の中に、その小さくない部分に、「困窮」を知らず、ある程度の財貨の私的所有にその物質的根拠をもつ、傲り高ぶりが存在するのだ。
この国において「中流」は(意識としてではなく現実に)まだ崩壊していないのである。
この数年、労働者間に正規・非正規という格差と対立が、普遍的な形で持ち込まれてきた。そのことが逆に、労働者「中流階層」を守るというかたちで現象化している。
痛みは不均等にのしかかる。
へたれおやじどもの思い。

しわよせは派遣へ!しあわせはわれらへ!

資本の論理の労働者内部(一部)への浸透。

下層労働者・零細企業経営者・自営業者、そして底辺の階層の中でしか生きていけない希望が見えない若者たちだけが、急進的な変化を待ち望んでいる。
今年の自殺者の増加はとどまるところをしらないという。決算期と派遣の契約期限切れの時期に特に増加するという。その現実が物語るものに思いを馳せたい。

そうであっても、政治が劇的に動くことはないであろう。
(たとえ民主党が大勝利し、それをメディアがどんなに劇的なものとして扱おうとも、
事実としてそれは決して劇的なことではない)
その要因のひとつであり、克服すべき課題としてあるのは、労働者内部における持てるものと持たざるものとの対立、そして人間的連帯の欠如であろう。

つづく





 



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タグ: 派遣 民主党 中流
投稿者:eudaimonia

へたれおやじたち

焼き鳥屋でひとり静かに飲んでいた。

妙に大声で騒ぐ輩がすぐ隣にいて、なにやら息巻いていた。
やぼったいが黙って聴いていた。僕にもよくあったことだ。
僕は左隣にいた。彼は右の隣の二人組にしきりに話しかけていた。
政治的な話題で聞き耳を立ててしまったのは、「社民党みたいのが政権についたら、殺されるぞ」という一言だった。言葉がしばらく脳裏に焼き付いて離れなかった。
彼はしばらく「イシハラとは知らない仲じゃないんだ・・」などと二人に自慢していたが、やがて左方向を向き、僕の左隣の4人組にでかい声で話しかけ始めた。
彼は無遠慮に体を傾けこっちは窮屈で仕方なかった。
右腕の時計を見せ自慢し、愛想良く相づちをうつ4人組にも満足気だった彼は、突如、
兄さん静かだな・・まあ飲めとビールを勧めてきた。
咄嗟のことだったがビールはいらないと僕は断った。勧められたビールを拒否するのは、僕としては滅多にないことだとおもう。
やがて彼は不機嫌になり「お前」という言葉を使い僕を蔑む。
「お前は派遣労働者だろう」というような調子だ。

僕の内面の、彼への拒絶反応を敏感に感じたんだろう。
屈服させようと、懐柔したり攻撃したり・・
僕は、お店の方に迷惑をかけることのないよう、こらえるべきことはこらえた。

へたれだと思う。この日本の今の現状が生み、そして育てたへたれ野郎だ。
でも、本当は一番残念だったのは、ああゆう輩に媚びを売っていたお客たちの存在だ。
もっとも、それもこの国の現状の反映なのだろうが・・・

悲しき、だが出会わなければならなかった出会いだろう。



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投稿者:eudaimonia

マルクスへの批判

(7/27改訂版)

「野球で言えば、天才・王貞治を超えるようなこと。」

前回、そんな風に表現したマルクスの学説に対する批判。
だが、今時の哲学入門書にはそれが「フツー」に発見され、逆に驚かされる。

例えば、新潟大学名誉教授 湯浅赳男氏著「面白いほどよくわかる哲学思想のすべて」
では、こんなふうにマルクスをぶった切る。

「・・・とくに日本ではマルクス主義者が大学を占領していた事情も手伝っている。
また、レーニンがマルクス主義をロシアの専制主義を美化する化粧に使い、多くの知識人が「社会主義が勝利する」と、まちがって先物買いをしたため有名になったが、決してマルクス主義は真理を明らかにしてくれたわけではなかった。(太字は原書)
哲学的にはマルクス主義の「弁証法的唯物論」なるものは、素朴なフォイエルバッハの唯物論よりもヘーゲルの弁証法でもっともらしく粉飾されているが、唯物論だ、観念論だと大騒ぎしていること自体が、ドイツ観念論以前であることを示している」

驚くべき事だと思う。
マルクスの疎外論や弁証法的唯物論の内容についての叙述のひとつもないままのマルクス哲学「批判」。

<「決してマルクス主義は真理を明らかにしてくれたわけではなかった」

「真理を明らかにする」という人類史的行為に対する把握はまさに「ドイツ観念論以前」。この先生、まともにヘーゲルを読んでいるかどうかも疑わしい。(注1)


<「観念論だ唯物論だと大騒ぎしている」

先生、観念論と唯物論という哲学上の大問題に対して真剣に考えた事があるのでしょうか。つまりは、先生は本当に哲学者といえるのか・・・僕にはどうも疑わしい。(注2)

そら恐ろしいのは、このような学者が、独立行政法人(かつての国立)大学の名誉教授となり、その著書が、数少ない公立図書館の哲学書コーナーに並び、こうした「哲学」を市民が学んでいくという現実だ。

哲学はなるべく原作者の著書から学びたいものだ。


注1)ヘーゲルの精神現象学には次のような一節がある

「真なるもの偽なるものというとき、普通の考え方ではそれらは各個に規定をうけた思想のうちに数えられ、運動することなく、それぞれ固有の実在であり、ひとつは彼方に、ひとつは此方にと、たがいに他との連携なしに孤立し固定していると考えられている。真理とは、鋳造された貨幣のようにできあがったものとして与えられ、そのまま懐に入れておけるようなものではない、ということである。」


注2)湯浅先生のことをてっきり哲学者と勘違いしていた。おわびして訂正します。先生は経済学者でした。いやぁ〜ビックリしました。経済学者の先生に「哲学の入門書」を書かせる出版社に・・「それってどうなの??」

追記。

ちなみに、「面白いほどよくわかる・・・」のように一覧表的に物事を論じ評価する事についてヘーゲルはこんなことを書いている。(精神現象学より)

「だから、目的や結果について論じることや、あれこれの哲学説の差異をあげたり評価をくだしたりすることは、おそらくひとが考えるよりは楽な仕事である。
なぜなら、それは、ことがらと取り組むかわりに、いつもその上を素通りするからである。こうした知識は、当のことがらの中に身をおき、そこで自分を忘れるという態度ではなく、いつも何か別のものに向かっているのであり、ことがらのもとにあって、それに身をささげるよりは終始、自分自身のもとにとどまっている。
内容と堅実さを持ったものに対し、もっとも容易なのは、それを評価することであり、より困難なのはそれを把捉することであり、もっとも困難なのは、把捉と評価とを合わせ、これに表現を与えることである。」

「この思考態度はそれが取りあげている内容に対して否定的にふるまう場合、その内容を反駁し無に帰せしめるすべを心得ている。このさい、事実はそうなのではないという洞察は、たんに否定的なものである。それはもうそれでおしまいなのであって、それが自ら自分を超え出て新たな内容に進んでいくことはない。だから再び内容を手に入れるには何か別のものが、どこかから取ってこられなければならない。
否定におけるこの態度は空虚な自我へ帰ってくる反省であり、自分の知識についてのむなしい誇りに終始する。・・・そこで行われる反省は自分の否定性そのものを内容として取り入れることがないので、およそ問題にされていることがらの中にいることはなく、いつもことがらを超えて外にいる。いつも、ことがらを超えているため、それは空虚な主張しかしていないのに、内容豊かな洞察よりも自分はいつも先のほうまで進んでいるとうぬぼれることになるのである。」

教育理論にも通ずる切れ味鋭い指摘。
湯浅先生、いかが受け取られますか?
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投稿者:eudaimonia

マルクスと疎外

クリックすると元のサイズで表示します友人と「資本論」の勉強会をすることになり、Kマルクスの著作を読んでいる。
一昨日から、資本論と並行して「経済学・哲学手稿」を読み始めた。
3度目の「経哲手稿」だが、そのあまりの面白さに「資本論」がどこかにぶっ飛んでいってしまった。それがマルクス26才の時のメモ書きと知り、ぶったまげた。
「この人は天才だ!」としか言いようがない。

2度読書した。
・・といっても、これまでの読み方は「自分のわかる部分、興味深い部分を吸収した」という程度の読み方だった。(はたしてそれを、「読んだ」と言えるのだろうか?)
「疎外」の意味を断片的に理解した。なるほどなぁと感心させられた。
あるいは、「人間的本質の対象的に展開された富をとおしてはじめて、主体的人間的な感性の富がはじめて発達させられ」る・・などの言葉に、頭がくらくらするほど酔いしれた。

3度目の読書。ようやく読書らしくなり、若きマルクスがこのメモでいったい何を言いたかったのか?その全体像が捕らえられた。そんな気がする。
当時流行した「国民経済学」を疎外論・弁証法などの哲学で斬り、ヘーゲルの哲学を人間の物質的社会的生活に関する学問=経済学の観点から斬り捨てた。大立ち回りを演じた若き批判精神に溢れた一青年の書であると理解できた。

願わくば、マルクスがその師匠ヘーゲルやフォイエルバッハの書をそうして読んだように、その論を余すことなく理解した上でその誤りや不十分さを発展的に解決して自分の論を展開できるほどの読み方を、「天才」マルクスに対して成し遂げたい。
(あまりにも大きな事を言ってますね。野球にたとえればホームラン数の世界記録をぬりかえます、っていう宣言のような・・「天才」ハンクアーロン・「天才」王への挑戦のような・・) 



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投稿者:eudaimonia
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