road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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批評家ではなく実践の人たらん

哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。
肝腎なのはそれを変えることである。

カール・マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」第11テーゼより

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マルクスが「フォイエルバッハにかんするテーゼ」において、
フォイエルバッハをはじめとするそれまでの唯物論者の世界観があまりに客体的・観照的であったことを批判して、対象や現実を実践的かつ主体的に把握する必要性を説いたことばである。

この言葉とはじめて出会ったのは19才のころだった。
当時の私は、この言葉をそれこそ「客体的」かつ「観照的」にながめ、そして読み流していた。
しかしその後の人生経験の中で、私のこころのなかでこの言葉の意味するところのことが次第に重みを増していった。

明日でイラクへの侵略戦争開戦から5年を迎える。
ちょうど5年前の3月20日の夜のことだ。
アメリカの侵略と小泉政権のそれへの追随に猛烈に抗議して、寒空の下、ハンガーストライキをしていた人々のことを私は決して忘れない。
何らかの抗議行動をしたいと切望していた私は、その人々とともに座りこむことにした。教会の牧師さん、教会につどう人々、その教会に命を救われたホームレスの人々。
だれもかれもが真剣だった。通行人に戦争を止めようと訴え、これから殺されてゆこうとするイラクの子ども達のために懸命に祈っていた。
彼らの姿に、「世界は解釈したり批評するものではなく変えるものである」という言葉を思い浮かべた。マルクスは無神論者であるから、皮肉なことではあるけれど・・・

昨日たったひとりで役所に出かけ、地方議会の事務局に陳情を行った。その他大勢としての陳情ではなく自らが主体となって行った陳情としては、人生初めての体験であった。
その内容は、地元の公共施設の管理を民間委託しようとする自治体への苦言である。
「民間活力の導入」という名のもとに公共サービスが解体されようとしていることについては、これまでさまざまな人に対して論を主張してきたが、行政当局を「変える」ための具体的行動はこれが初めてのこととなった。

ただ世界を解釈するのではなく世界を変えるための行動を。
これからも自らに課していこうと思う。


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投稿者:eudaimonia

子ども達へ 別れのメッセージ

先週で、今年勤務していた学校を去ることとなった。
以下は子どもたちへの別れのメッセージである。

あいさつというよりも、「最後の授業」というような気持ちで少しお話しますね。

僕が、小学生だったころ。六年生の頃です。いつも考えていたことがありました。
休み時間にはいつもそのことばかり考えていました。
どういうことかというと、それは、

「勉強ができることよりも人間にとって大切なことがあるんじゃないか?」

ということです。

勉強ができると先生にほめられる。みんなからちやほやされる。テストの点で友達に勝つと気分がいい。いいことばっかりでした。でもある時、ふと思ったんです。

「そんなことよりも、もっと大切なことがあるんじゃないか。」

そして、

「そのもっと大切なことで、誰にもまけないような自分になりたい」と

それから、

「じゃあ人間にとって、大切なことっていったいなんだろう?」


と考える毎日が始まりました。

そして卒業を迎えるころ、「こういう自分になりたい」と目標を決めました。
そのことは、今でも僕の目標になっています。
でも、まだまだです。まだまだ目標達成とはいきません。

今、この国の大人達は、子ども達のテストの点が他の国よりも下がった、こりゃたいへんだ〜と大騒ぎです。
でも、ぼくから見れば、もっと「こりゃたいへんだ〜」と思うことがあります。
たとえば、バスにのります。昼に乗るとお年寄りと学校帰りの高校生が多いです。
座っているのは元気な高校生達、立っているのはおじいちゃん。おばあちゃん。
若い人がお年寄りを大切にできない。そんな社会はどこか病気になっている社会ですね。

あなたたちはこの国の未来をつくる存在です。
どうか高い目標をもって自分を 育てていって下さい。


この一年、あなたたちと過ごした一時間一時間は、僕にとってどれも大切な時間でした。
どうもありがとう。



その話のあと、ひとりの男の子がやってきて僕に話しかけてきた。
彼は真剣なまなざしでこう言った。

「むかし先生が考えていたことと同じことを、いま僕は考えています」

それは僕にとってとてつもなくうれしく、また、未来への希望を感じさせてくれる言葉でもあった。





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投稿者:eudaimonia

教育とは何か

人間の形成は、工場で一定の物をつくるのとは全然違います。
工場で物をつくる時には、そのつくろうとしている物に最も適当な資材を確保して、
目的にしたがって、精密な設計をして、その設計どおりの作業をすればいい製品ができる。
学校は一定の意図と計画にもとづいていい「製品」をつくる場所じゃないんです。
私は、生命への畏敬の欠けたところに教育はないということを主張してきましたが、
この視点が日本の学校教育に決定的に欠けているのでないでしょうか。
それぞれの子どもがかけがえのない「存在」なんです。

それぞれにかけがえのない生命をもつ子どもの、それぞれの人生を生きるための力を身につけるための場所が学校です。

立身や出世は学校教育の目的にはなり得ない。
強いものも弱いものも、はやいものものろいものも、それぞれに精一杯に生きる、
その生きるという仕事を助けるのが私は教育だと思うのです。
・・・それをやることが私は学校教育がいま囚われている荒廃から抜け出すたった一つの道じゃないかという気がしています。

「教えることと学ぶこと」林竹二

今から20年ほど前に、灰谷健次郎氏との対談において語られた林竹二の言葉である。
発言は今日においてもなお新鮮で、心に響く。
さかんに教育論議が行われている昨今だが、
林竹二の思想はその根本を衝く。

本質論を語ろう。
いったい何のための?
誰のための「教育改革」なのか?

この国の子ども達の学力低下が問題視されている。
いったいなぜ?
誰にとっての「問題」なのだろうか?

「教育成果」をはかる物差しとしての学力テストが、
義務教育のほとんどすべての学校におしつけられた。(「製品」の品質検査?)
おしゃか(不良品)を生み出すような学校、教員は学校選択制度、教員評価などによって厳しいペナルティーが科せられるようになる。
このような競争原理こそが教育を再生させるのだ!!!?   
そこには、企業の論理(資本の論理)を教育の世界にも貫徹させようとする強力な力が働いている。

我々は本質論をかたろう。
いったい何のために?
誰のためにそれが必要なのかと。

子ども達は教育工場で日々生産されているロボットではない。
教育は「人格の完成をめざすものである」と高らかにうたいあげた旧教育基本法を、
財界や保守的政治家達がこぞって目の敵にした理由が、
今、我々の眼の前で明らかにされつつある。











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投稿者:eudaimonia
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