road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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「規制緩和」がもたらしたもの

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この店は、わが町の江戸時代から栄えた街道の沿道にある。いや、あった。
その歴史は100年をゆうに越えるであろう。
一昨日、ひっそりとその長い歴史の幕を閉じた。

それは、その日偶然そこを通りかかった時のことだった。
おそらく近所の人なのだろう。一足の靴を買い求めにきたその人に、かなりの高齢に見える店の主がなんどもなんどもお礼を言い頭を下げていた。
「よういらっしゃったなぁ。ありがとう。ありがとう。」
その声はかすかに震えていた。客は、押さえきれない何かの感情をふりきるかのように足早にその店に背を向け歩き出した。
買ったばかりの靴の袋をしっかりと握りしめ、それを前後に大きくゆすりながら・・
その婦人が、靴を求めてというよりも、その店の主人の労をねぎらい、その店に最後の別れの言葉を告げるためにそこにやってきたということは明らかだった。

子どもの頃からよく通った道。
よく買い物をした記憶のある店を含め、その道の沿道が今急速に姿を変えつつある。
少なくともこの40年間、見つめ続けてきた街並み。僕もまた街に見守られ育ってきた。
変わらないことに安心し、それを当たり前のように考えてきた自分にとって、
街の急変はにわかには受け入れられない、やりきれない現実である。

家族経営の零細商店が、大きな資本を持ったコンビニなどに駆逐され、廃業に追い込まれていくことは、資本主義経済の発展法則からみれば、いわば当たり前のことなのかも知れない。
しかし、すくなくとも次の事実は記憶されねばならないだろう。
中小小売業の営業を守るための規制はまがりなりにもかつて、この国にはあった。
それらの規制は守られ発展させられる必要があった。

たとえば、1973年制定の大店法。
それが、93年の規制緩和、98年の廃止へと追い込まれていく。
アメリカと財界の要求を受け入れ、零細経営を切り捨てる選択をこの国の政権党はしてきたという事実。
それを多くの国民が支持してきたのだから、それは仕方のないことなのかも知れない。
その結果、大きな駐車場があり、より安く、品揃えがよく、かつ小綺麗な店があっちこっちに出来ることになった。

だが、たとえば車をもたない老人たちは、それで便利になったのだろうか?
だが、たとえば、商店街があることによって街が持っていた人々の絆はどこに消えてしまうのだろうか?そしてそのことは、子ども達が育つ環境にも大きな負の影響を与えてはいないだろうか?

我々は目先の便利さや目先の損得ばかりを追い求めすぎたのではないか。
その結果、何か大切なものを失ってきたのではないか。
最近の心を凍りつかせるような事件、ニュースはそのことを我々に鋭く問いかけているような気がしてならない。
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投稿者:eudaimonia

続・後期高齢者医療制度の冷酷

常識も非常識もないこの国では
差別とやっかみに全てをすり替える
同じ島国で生まれ育ったのに
貧しき心で弱きものをあざ笑う

長渕剛「耳かきの唄」

75才以上のお年寄りが受けられる医療が4月から変わる。
厚生労働省の特別部会は言う。

その一、「彼らは、老化にともなって生理的機能もおとろえ、複数の箇所で慢性的な病気をもつ。そのための治療も長期化する。また同時に、ボケという問題も抱える。」(要旨)

そこで出されてきたものの一つが、保険から出す医療費に上限を設ける定額制(包括制)である。
75才以上の外来患者について医療機関に支払うお金は月6千円まで。
それ以上はびた一文出さないという「後期高齢者診療料」。
検査、画像診断、処置、医学管理をすべて含めて6千円である。
もし75才以上のお年寄りのために、本当に必要で手厚い治療を行う医療機関があったとすれば、そのような病院は赤字になるという仕組みだ。
これでは年齢が75才以上というだけで、必要な治療が受けられなくなるおそれがある。
(この定額制は、財界のボス、御手洗経団連会長の強い要望に応えたものである。)

もう一つは、入院についても「長く病院にいさせない」ために、
「後期高齢者退院調整加算」が新設されている。
老人を追い出せばそれだけメリットが与えられるというわけだ。
療養ベッドの大幅削減で病院を追われる人々。
「在宅死」の割合を現在の2倍にすれば5千億円の医療費が減らせると、厚生労働省は期待している。

その二、「彼らは、この制度の中でいずれ死んでいく人たちである」

その認識の下、「後期高齢者終末期相談支援料」がつくられた。
終末期にあたってはできるだけ延命治療にお金をかける事がないように。
医者と患者・家族が約束をとりまとめた場合は、特別に診療報酬が出されることになる。
死後においても差別は続く。
後期高齢者医療制度の下では支給される葬儀費も、74才以下と比べほぼ半減となる。
これでいくらの金をうかせたいっていうんだろう?

お願いだから、銭の音ぢゃなく人間の声を聴いてくれ。

人の「生き死に」さえも銭に換えるこの国だから
ありったけの命をたたいて今、叫ぶのだ
「すみません!毛玉のついた安い耳かきを突っ込んで
人間の声を聴こえるようにしてくれ!

「耳かきの唄」長渕剛

26日19:54改訂版












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投稿者:eudaimonia

後期高齢者医療制度の冷酷

日本共産党小池晃議員渾身の質問である。
http://www.jcp.or.jp/movie/news_mov/20080315/20080314_koike.asx

「75才以上の高齢者には、なぜメタボ検診を義務づけないのか?」という質問に対する「残存能力の維持」うんぬんという答弁。
その答弁に対する小池さんの怒りの反論に涙が出そうになった。

「75才を過ぎたら扶養家族にしちゃならないっていうのはいったいなぜなのか?」
小池さんと同じ疑問を抱いていた。
僕にとっても、76才になる母に新たな保険料負担がのしかかるというだけの問題ではない。
母が心におった傷は重く深い。

母は言う。
「結局は、長生きしてもらっては困るということなんだね。」
「昔は長生きは祝ってもらえることだったのにね」
「いったい誰がこんな法律考えたのだろう?」

そんな思いを今、この国の沢山のお年寄りの方たちが抱いていることであろう。

こんな制度を要請した財界、法案化した厚生労働官僚、そしてその実現に力を貸した自公の政治家たちに訴えたい。
人間が大切なのか、
お金が大切なのか。
人々の幸せが大切なのか、
私欲が大切なのか。


これはもう亡国のくわだてとしかいいようがない。


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投稿者:eudaimonia

「資本論」に再挑戦

学生時代にチャレンジしたものの、あまりにも難解すぎて
途中で挫折した。
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「資本論」に、およそ四半世紀ぶりの再チャレンジを試みた。

とりあえず第一部、第一編、第一章「商品」を読了。
なんと!あの頃何度読んでもチンプンカンプンだった箇所がすらすら理解できる。
何よりも、この章の位置づけ及び全体像が掴めたことがうれしい。
なにしろ、
「資本論は、なぜ資本ではなく商品の分析から出発するのか???」
この問いはあのころの初歩的にしてかつ根本的な疑問だったから。

自分は、この四半世紀の間に少しは知的に成長できたのかも・・・と、しばし喜びに浸っていた。

商品に内在する矛盾の自己展開過程の解明。
「人と人との関係」が「ものとものとの関係」としてあらわれる、商品の物神的性格とその秘密の暴露。 
現象にとらわれその本質が見えなかった当時の経済学者に対する、極めて辛辣で完膚無きまでの批判。
人間の歴史的成長過程をその経済的基礎から明らかにする記述の見事さ。
そのどれについても舌をまいた。
その内容の奥深さをしるとともに、論理展開法のテキストとしても充分すぎる著作である事を知った。

四半世紀ぶり。
自分なりに理解できたことはうれしいが、これに科学的批判を試みようとなると、少なくともあと四半世紀以上の歳月は必要だろう。

とりあえず、再読が何部何編何章までいけるやら・・・






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投稿者:eudaimonia

ドクサに対する徹底した吟味を

民主主義社会における彼らの役割は、リップマンの言葉を借りれば「観客」になることであって、行動に参加することではない。
しかし、彼らの役割をそれだけにかぎるわけにもいかない。
何しろ、ここは民主主義社会なのだ。
そこでときどき、彼らは特別階級の誰かに支持を表明することを許される。
「私たちはこの人をリーダーにしたい」
「あの人をリーダーにしたい」
というような発言をする機会も与えられるのだ。
何しろここは民主主義社会で、全体主義国家ではないからだ。これを選挙という。
だが、いったん特別階級の誰かに支持を表明したら、あとは観客に戻って彼らの行動を傍観する。「とまどえる群れ」は参加者とは見なされていない。
これこそ正しく機能している民主主義社会の姿なのである。
(中略)
そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。
それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。
メディアと教育機関と大衆文化は切り離しておかなければならない。
政治を動かす階級と意志決定者は、そうしたでっちあげにある程度の現実性をもたせなければならず、それと同時に彼らがそれをほどほどに信じこむようにすることも必要だ。
ただし、ここには暗黙の前提がある。この暗黙の前提は・・・どうしたら意志決定の権限をもつ立場につけるのか、という問題に関係している。もちろんその方法は「真の」権力者に仕えることだ。社会をわがものとしている真の権力者は、ごく限られた一部の人間である。
(中略)
残りのとまどえる群れについては、つねに彼らの注意をそらしておくことが必要である。
彼らの関心をまったく別のところへ向けさせろ。面倒をおこさせるな。
何があっても行動を傍観しているだけにさせるのだ。
例外は、真の権力者の誰かにたいする支持を表明させるときだけだ。
そこまでならとまどえる群れに選択させてもよいだろう。

「メディア・コントロール」ノーム・チョムスキー

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コイズミ総理誕生以後のこの国の「民主主義」政治の状況を、まるで予言していたかのような彼の言質に仰天する。
メディアによる大衆コントロールのことなど、これっぽっちも意識にのぼらせることなく、今日もメディアに踊らされるこの国の「とまどえる群れ」たち。
林竹二の言うところの、いやソクラテスの言うところのドクサに対する吟味を、いったいどれだけの人間が真摯に実行しているのだろうか?

辺見庸氏との対談でのチョムスキーの発言はいっそう痛い。

何度もいうようですが、他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。
東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」といっているのは簡単です。
日本の人たちがいましなければならないのは、東京をみること、鏡を覗いてみることです。
そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか。


アメリカ人を中国人と置き換えてみても、事の本質は同じであろう。
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投稿者:eudaimonia
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