road to truth

ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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先輩セツラーの名言

昨日、学生時代のサークルOBの掲示板に、次のようなメッセージが寄せられていた。

「政治も社会も一人の子どもにすべて反映している。
一人はすべてに責任があり、全体は一人に責任があるという。
私たちは、未熟でありながら、恐れながら、しかし一人のことを考えようとしていたのです。それは今、ますます貴重です。」


気がつけば、最近めっきりと、日常生活の中で使わなくなってしまった言葉。僕も、そして僕の周りの人たちも・・・
それは、「民主主義」という言葉だ。
あの頃の僕たちは、民主主義を、民主的な仲間の在り方を懸命に追い求めていた。
それは今、間違えなく、次世代に伝えるべき重要な価値であり、同時に、我々がもう一度自らに問いつめて考えるべき価値あるものと思う。
政治の在り方や多数決という手法の問題ではなく、本質としての民主主義を・・・

「人間でありたいと願っていたから・・・
大学という機構の歯車のひとつとなり、水俣で苦しむ人々の思いも知らぬ。
そんな人間になりたくなかったから・・・」


こんな一節だったと記憶している。サークルの新入生歓迎のための構成劇の中のセリフを思い起こした。

人間としての想像力の欠落、それ故の共感性の欠如。
それが、生きる仲間としての人と人との連帯をはばむ壁となって立ちはだかる。
ホームレスに転落した一人の老いた女性の、かけがえのない人生を奪った中学生達。
「家族がないなら、殺しても泣く人もないだろうと思った」と供述したという。
職を必死に探していた老女に対し、救いの手を差しのべるどころか、駅前広場から閉め出し橋の下に追い込んだ役人たち。
だがその一人一人にも、人間としての生がありドラマがあり、その人生に政治と社会の縮図が刻まれているのだ。

職場で時々、給食費を「払わない」家庭のことが話題になる。
「わずか三千円の給食費がなぜ出せない?」と非難する声も耳にする。
だが僕たちは、一人の子ども・ひとつの家庭のことをいったいどれだけ深く見つめ、考えあっているだろうか?
他者のほとんど何もわからないままに、うわべだけで人を知った気になって評価してはいないか?
したがってまた、政治が・社会が、一人の子どものありかたに・ひとつの家庭に「すべて反映している」ことにも目を閉ざしてしまっているのではないだろうか。

「我々一人一人はすべてに責任があり、全体は一人一人に責任がある。」
「未熟でありながら、恐れながら」一人の子どものことを、あの頃と同じように必死に考えられるような自分でありたいと思う。
出来ることならば、職場の仲間と共に・・・


大いなる触発をうけた先輩セツラーの言葉だった。









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投稿者:eudaimonia
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