2006/2/19
まどか(仮名)、小学4年生。
彼女は今日算数の時間、目を輝かせて「楽しいな〜」「算数たのしい!」と、クラスのみんなに聞こえるほどの大きな声ではしゃいでいた。
こんな時がやってこようとは、4月の頃の僕には想像することすら出来なかった・・・
昨年の三学期。まどかは、たとえ学校に来ても授業は受けずに運動場で一人で遊びまわっていたという。
家庭の事情により(母子家庭で、母は夜のお勤め。まどかは母が仕事から帰宅するまで起きていて、明け方の4時頃に母と共に寝るという)勉強に身を入れることも出来ず、したがって授業についていけない。そんな彼女にとって、「勉強することはただただ苦痛を強いられること」だと感じたのも当然であったであろう。
現在の担任の先生の尽力もあり、(毎日のように朝、彼女を迎えにいっている)少しづつ力をつけてきた彼女。
算数も、僕が「九九」のマンツーマントレーニングをして、少しずつ覚えた。そこには級友の励ましもあった。
ところが、2学期途中頃になって、まどかは突然攻撃的に僕をはねつけるようになっていた。「うるさい」・「こないでいい」などなどの言葉が僕に投げつけられた。
そのころの彼女の感情はとても不安定だったので、彼女に対応することはかなりむずかしくエネルギーの必要なことだった。
僕は、嫌われながらも懸命になって彼女のめんどうを見た。自分を受け入れない相手のためにエネルギーを注ぎ込むことは正直言って苦痛だった。与えられた苦痛は受け入れたが、同時にまた、このままではいけないとも思っていた。
転機は、社会科の発表会のための準備の時間に訪れた。
いつものように「むつっ」とふくれっ面したまどかの前で、僕は他の子どもたちと一緒に、発表会のための「指示棒づくり」を笑い転げながらやっていた。手作りの指示棒づくり・・・アイデアいっぱい出しあいながら、お気に入りの作品を子どもたちと共につくった。
心底楽しみながら・・・思い通りのものを創りだした。
「わぁ〜、やったぁ〜やったぁ〜!」と喜ぶ僕を、まどかは「ヘンなの〜」とおもしろがって見ていた。
「先生、子どもみたい」と笑顔をみせた。子どもなのに子どもらしくないまどかにそう言われた。
そこに希望を見つけた。
「自らの姿勢ひとつで、生活は楽しくできるもの」
それがその時の、僕からのあの子へのメッセージだった。
何かが変わりつつあった。
理科の実験の時。マッチで火をつけることを恐がるまどか。手を貸しながら、言葉をかけながら、何度もチャレンジさせて・・・とうとう自分の力で出来た時の彼女の満足そうな笑顔。
今日の算数の時間、まどかは何度も「丸つけて、丸つけて」と問題に答えるたびに僕に催促してきた。
「特別扱いはよくない」は一般論。まどかへの丸つけは別だ。
現に、彼女の喜ぶ姿をほほえましくクラスメートも見つめていた。
それは、彼女にとって、今までに味わったことのない自己肯定の感触だったのかも知れない。
「おもしろい!算数たのしい!」今日、まどかは目を輝かせてそう言った。
クラスメートのみんなが笑顔でそれに答えていた。
「人間は変わる。」
人の持っている可能性のなんと幅の広いことだろう!
まどかから僕が学んだこと。
授業をさぼって遊びまわっていたあの子も、実は「勉強が好き!」っていう気持ちを持っていた。
条件さえあれば、いつでもどこまでも人は変わる。
(「やってみよう」という主体的な姿勢。その結果、「できた」「わかった」と感じられる応答性。そして、「よくがんばったね!」「すごいね!」って認められる人の(関係性の)存在。)
そして、それは決して子どもだけのことじゃない。
僕もまた、自分の可能性に自分で限界を設定しないようにしたいものだと思う。
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彼女は今日算数の時間、目を輝かせて「楽しいな〜」「算数たのしい!」と、クラスのみんなに聞こえるほどの大きな声ではしゃいでいた。
こんな時がやってこようとは、4月の頃の僕には想像することすら出来なかった・・・
昨年の三学期。まどかは、たとえ学校に来ても授業は受けずに運動場で一人で遊びまわっていたという。
家庭の事情により(母子家庭で、母は夜のお勤め。まどかは母が仕事から帰宅するまで起きていて、明け方の4時頃に母と共に寝るという)勉強に身を入れることも出来ず、したがって授業についていけない。そんな彼女にとって、「勉強することはただただ苦痛を強いられること」だと感じたのも当然であったであろう。
現在の担任の先生の尽力もあり、(毎日のように朝、彼女を迎えにいっている)少しづつ力をつけてきた彼女。
算数も、僕が「九九」のマンツーマントレーニングをして、少しずつ覚えた。そこには級友の励ましもあった。
ところが、2学期途中頃になって、まどかは突然攻撃的に僕をはねつけるようになっていた。「うるさい」・「こないでいい」などなどの言葉が僕に投げつけられた。
そのころの彼女の感情はとても不安定だったので、彼女に対応することはかなりむずかしくエネルギーの必要なことだった。
僕は、嫌われながらも懸命になって彼女のめんどうを見た。自分を受け入れない相手のためにエネルギーを注ぎ込むことは正直言って苦痛だった。与えられた苦痛は受け入れたが、同時にまた、このままではいけないとも思っていた。
転機は、社会科の発表会のための準備の時間に訪れた。
いつものように「むつっ」とふくれっ面したまどかの前で、僕は他の子どもたちと一緒に、発表会のための「指示棒づくり」を笑い転げながらやっていた。手作りの指示棒づくり・・・アイデアいっぱい出しあいながら、お気に入りの作品を子どもたちと共につくった。
心底楽しみながら・・・思い通りのものを創りだした。
「わぁ〜、やったぁ〜やったぁ〜!」と喜ぶ僕を、まどかは「ヘンなの〜」とおもしろがって見ていた。
「先生、子どもみたい」と笑顔をみせた。子どもなのに子どもらしくないまどかにそう言われた。
そこに希望を見つけた。
「自らの姿勢ひとつで、生活は楽しくできるもの」
それがその時の、僕からのあの子へのメッセージだった。
何かが変わりつつあった。
理科の実験の時。マッチで火をつけることを恐がるまどか。手を貸しながら、言葉をかけながら、何度もチャレンジさせて・・・とうとう自分の力で出来た時の彼女の満足そうな笑顔。
今日の算数の時間、まどかは何度も「丸つけて、丸つけて」と問題に答えるたびに僕に催促してきた。
「特別扱いはよくない」は一般論。まどかへの丸つけは別だ。
現に、彼女の喜ぶ姿をほほえましくクラスメートも見つめていた。
それは、彼女にとって、今までに味わったことのない自己肯定の感触だったのかも知れない。
「おもしろい!算数たのしい!」今日、まどかは目を輝かせてそう言った。
クラスメートのみんなが笑顔でそれに答えていた。
「人間は変わる。」
人の持っている可能性のなんと幅の広いことだろう!
まどかから僕が学んだこと。
授業をさぼって遊びまわっていたあの子も、実は「勉強が好き!」っていう気持ちを持っていた。
条件さえあれば、いつでもどこまでも人は変わる。
(「やってみよう」という主体的な姿勢。その結果、「できた」「わかった」と感じられる応答性。そして、「よくがんばったね!」「すごいね!」って認められる人の(関係性の)存在。)
そして、それは決して子どもだけのことじゃない。
僕もまた、自分の可能性に自分で限界を設定しないようにしたいものだと思う。

投稿者:eudaimonia