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ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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マルクスへの批判

(7/27改訂版)

「野球で言えば、天才・王貞治を超えるようなこと。」

前回、そんな風に表現したマルクスの学説に対する批判。
だが、今時の哲学入門書にはそれが「フツー」に発見され、逆に驚かされる。

例えば、新潟大学名誉教授 湯浅赳男氏著「面白いほどよくわかる哲学思想のすべて」
では、こんなふうにマルクスをぶった切る。

「・・・とくに日本ではマルクス主義者が大学を占領していた事情も手伝っている。
また、レーニンがマルクス主義をロシアの専制主義を美化する化粧に使い、多くの知識人が「社会主義が勝利する」と、まちがって先物買いをしたため有名になったが、決してマルクス主義は真理を明らかにしてくれたわけではなかった。(太字は原書)
哲学的にはマルクス主義の「弁証法的唯物論」なるものは、素朴なフォイエルバッハの唯物論よりもヘーゲルの弁証法でもっともらしく粉飾されているが、唯物論だ、観念論だと大騒ぎしていること自体が、ドイツ観念論以前であることを示している」

驚くべき事だと思う。
マルクスの疎外論や弁証法的唯物論の内容についての叙述のひとつもないままのマルクス哲学「批判」。

<「決してマルクス主義は真理を明らかにしてくれたわけではなかった」

「真理を明らかにする」という人類史的行為に対する把握はまさに「ドイツ観念論以前」。この先生、まともにヘーゲルを読んでいるかどうかも疑わしい。(注1)


<「観念論だ唯物論だと大騒ぎしている」

先生、観念論と唯物論という哲学上の大問題に対して真剣に考えた事があるのでしょうか。つまりは、先生は本当に哲学者といえるのか・・・僕にはどうも疑わしい。(注2)

そら恐ろしいのは、このような学者が、独立行政法人(かつての国立)大学の名誉教授となり、その著書が、数少ない公立図書館の哲学書コーナーに並び、こうした「哲学」を市民が学んでいくという現実だ。

哲学はなるべく原作者の著書から学びたいものだ。


注1)ヘーゲルの精神現象学には次のような一節がある

「真なるもの偽なるものというとき、普通の考え方ではそれらは各個に規定をうけた思想のうちに数えられ、運動することなく、それぞれ固有の実在であり、ひとつは彼方に、ひとつは此方にと、たがいに他との連携なしに孤立し固定していると考えられている。真理とは、鋳造された貨幣のようにできあがったものとして与えられ、そのまま懐に入れておけるようなものではない、ということである。」


注2)湯浅先生のことをてっきり哲学者と勘違いしていた。おわびして訂正します。先生は経済学者でした。いやぁ〜ビックリしました。経済学者の先生に「哲学の入門書」を書かせる出版社に・・「それってどうなの??」

追記。

ちなみに、「面白いほどよくわかる・・・」のように一覧表的に物事を論じ評価する事についてヘーゲルはこんなことを書いている。(精神現象学より)

「だから、目的や結果について論じることや、あれこれの哲学説の差異をあげたり評価をくだしたりすることは、おそらくひとが考えるよりは楽な仕事である。
なぜなら、それは、ことがらと取り組むかわりに、いつもその上を素通りするからである。こうした知識は、当のことがらの中に身をおき、そこで自分を忘れるという態度ではなく、いつも何か別のものに向かっているのであり、ことがらのもとにあって、それに身をささげるよりは終始、自分自身のもとにとどまっている。
内容と堅実さを持ったものに対し、もっとも容易なのは、それを評価することであり、より困難なのはそれを把捉することであり、もっとも困難なのは、把捉と評価とを合わせ、これに表現を与えることである。」

「この思考態度はそれが取りあげている内容に対して否定的にふるまう場合、その内容を反駁し無に帰せしめるすべを心得ている。このさい、事実はそうなのではないという洞察は、たんに否定的なものである。それはもうそれでおしまいなのであって、それが自ら自分を超え出て新たな内容に進んでいくことはない。だから再び内容を手に入れるには何か別のものが、どこかから取ってこられなければならない。
否定におけるこの態度は空虚な自我へ帰ってくる反省であり、自分の知識についてのむなしい誇りに終始する。・・・そこで行われる反省は自分の否定性そのものを内容として取り入れることがないので、およそ問題にされていることがらの中にいることはなく、いつもことがらを超えて外にいる。いつも、ことがらを超えているため、それは空虚な主張しかしていないのに、内容豊かな洞察よりも自分はいつも先のほうまで進んでいるとうぬぼれることになるのである。」

教育理論にも通ずる切れ味鋭い指摘。
湯浅先生、いかが受け取られますか?
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投稿者:eudaimonia
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