2021/7/28

50年来の親友の「偲ぶ会」を終えて  短歌

先日は久しぶりに京阪沿線の香里園駅まで出かけてきた。目的は3ヵ月前に急逝した親友を偲ぶ会に参加するためであった。彼は同じ会社の同じ独身寮の同じ部屋の住人の内の3人組の一人だから50年来の盟友ということになる。そのもう一人の大親友が発起人をしてくれたので、この私は当日の進行係を引き受けた。

会場には、26年前に3人で作った名山会、その後そこから独立したドリカム登山会、そして古代史探訪会の主要メンバーら16名が参集して偲ぶ会は始まった。会場の居酒屋の中央付近の壁には2009年に彼の故郷である大分県の九重連山に登った際に大船山の山頂で撮影した彼の単独写真が飾られている。

会の発起人である大親友は開会の挨拶の中で予め巻紙に書き込んでいた「偲び状」を読み上げ始めたのだが、途中で声が詰まってしまい他のメンバーに代わってもらう場面が2回もあった。そのあとは彼の遺影を眺めながら16名がそれぞれ彼との思い出を淡々と述べていく。

その途中では、「いつかある日山で死んだら」の歌詞で始まる「いつかある日」の歌を全員で斉唱した。メンバーの1人によるフリューゲルホルンの伴奏がいかにも悲しい。閉会の直前では、まるで彼の生きざまを描いたような歌詞で埋められた「愛しき日々」をこれまたホルンの伴奏による全員の斉唱で締めくくった。

実はこの会には亡くなった彼の奥様と同居の次男さんもお招きしていたのだが、次男さんの仕事の関係からコロナ禍の中での大勢が集まる場への参加を見送りたいとの理由で不参加となっていた。やむを得ないことと理解はしたものの、もしご参加いただいていたとしたら、お二方も、自宅では見せなかったであろう故人の別な側面を知ったり、故人が友人達からどれほど慕われていたのかも身をもって知ることになったであろう。それだけが心残りではある。

しかしながら、彼の葬儀にも呼んでもらえなかった我々としては、ようやくこれで彼をしっかりと見送ることができた気がする。この3ヵ月間引きずってきた気持ちの整理がようやくついた気がする。改めてタッチ原田辰雄さんのご冥福をお祈りする。合掌。
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2021/7/15

本物と偽物  短歌

あるテレビ番組を観ていて感じたことがある。それは俳句の解説とランク付けをする最近人気の番組なのだが、1位か最下位か最後まで残された2人の事前コメントは、1人は「これまでになかった出来だし、それだけの努力をしたので自信がある」というものと、もう1人は「さっきまでの皆さんの作品と講評を聞いていたら、自分の作品の不足点がたくさん見えてきたのでダメかもしれない」というものであった。

これを観ていて、ある場面を思い出した。それは入学試験などの終わった後の場面で交わされる2人の会話である。1人は「自分としてはやるだけやったし満足感があるから、結果もついてくるに違いない」、もう1人は「あそことあそこを間違えたことに気がついた。だから自分には無理かもしれない」というものであった。

もうおわかりだと思うが、ほとんどのケースでは前者の方が不合格となり、後者の方が合格になったのである。それはなぜなのだろうか?

理由は、自分のことを冷静にかつ客観的に観れているかと、自分に都合よく主観的にしか観れていないか、という点にある。また自分自身に対して甘いのか辛いのかということでもあるが、この違いは小さいが大きい。言い換えれば「自己理解」ができているかどうかということにつながり、本物と偽物の違いとも言えるのではないだろうか。

この法則はその他の様々なことにも当てはまる気がする。人間、何歳になっても謙虚で、自分のことを冷静かつ客観的に観ることができることを大切にしたいものである。
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タグ: 本物 偽物 自己理解



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