2020/2/3

我が町は遺跡のある町だった  短歌

昨日は地元自治会が主催するセミナーに出席した。テーマは「壱分遺跡群と暗越奈良街道」で、講師は橿原考古学研究所付属博物館の主任研究員であった。

実際にこの地を掘って調査したという講師によると、私が住む家の真ん前の国道168号線(当時はバイパス)工事が始まった1993年ごろ(今から27年前、私が住む14年前)に調査をしたそうで、その下からは弥生時代の竪穴式住居のあとや方形集溝墓が見つかったそうである。さらには奈良時代と思われる大きな堀立柱建物や役人が身につけるベルトの飾り物も出土したそうで、これにより当時は朝廷の役所の一つがあったと推定されるそうである。

また500mほど南の暗越(くらがりごえ)奈良街道(現在の国道308号線)沿いには、いくつもの古墳が見つかっているが、それらの大きさは大和朝廷の上位20番目くらいまでの地位の高い人の墓であったことが推定されるそうである。ただそれらが古墳群を形成せず単独でぽつりぽつりと存在する訳は、この地に住んでいたからでなく大阪と奈良を結ぶ政治経済上重要な街道の建設を指揮した責任者の墓であったことを示している、との説明であった。

その当時は、大阪湾が生駒山の東側の東大阪市日下のあたりまで来ていて、そこに「草香津(くさかつ)」という名の港があり、朝鮮半島や九州方面から着いた荷物が都まで運ばれる重要な物流のための街道であったのである。従って、我が家の周辺にはそのための役所があったと思われるのである。

生駒市に住んで13年目に入ったが、こういう話は初めて耳にした。私よりもずっと早くから住んでいる地元住民たちも初めて聞く内容であったらしい。地元の歴史を知るのは楽しいし、いい機会をくれたものだと感じた。

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