2019/10/29

あちこちで駅名が変わっている  短歌

この数日間で関西の鉄道の駅名が変わっているのをいくつか見かけた。一つ目は大阪メトロの「大阪梅田」(旧・梅田)であり、二つ目は京阪電車の「石清水八幡宮」(旧・八幡市)である。他には、阪急電車の「河原町」も「京都河原町」に、「石橋」も「石橋阪大前」に変更されている。

変更の日付は10月1日で、どうやら8%から10%への消費税の増税により料金表などを変更するのに併せて実施したようである。また変更の理由は、インバウンドをはじめ関西以外からの来訪者に、よりわかりやすいようにするためだと聞いている。

確かに、地元の人にとっては馴染みの深い駅名であっても、その地を初めて訪れる人々にとってはわかりにくい名前や紛らわしい名前は変えたほうがいいに違いない。いやむしろ目的地がわかりやすいように表示することこそが親切で思いやりのある措置だと言うべきであろう。

一方で、地名については話は違う。行政側の効率などの都合で全国どこにでもあるような地名に変更する動きがあるようだが、その地の故事や歴史に基づく古くからの地名についてはできるだけ長く保存すべきである。

要は、同じ名前でも、それを必要とする人や必要とする目的によって考えることが大切なのである。
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2019/10/23

母の納骨式を終えて  短歌

一昨日は和歌山市内の妙法寺で、年末に満93歳で亡くなった母親の納骨式を行った。私と弟のそれぞれの夫婦だけの寂しい納骨式であったが、無事に終えることができたので、今はホッとしている。昨日会ったある人からは、「葬儀の時も当然寂しさは感じるが、納骨式を終えるとそれ以上の寂寥感を感じるものですね」と言われたが、まさにそのように感じる。

法要を行った妙法寺というのは、和歌山市内の寺町というお寺が密集した町のほぼ中央に位置し、紀州藩の学者であった祇園南海師のお墓があることでも知られている。ここのお墓は、父親が生存中に自分で見つけてきたお墓である。だからこれまではお墓には29年前に亡くなった父親だけしか入っていなかったのだが、この度やっと2人目が入ったことになる。

法要と納骨のあと、住職としばらく話し込んだ。先ずは、葬儀は大みそかであったため菩提寺であるこのお寺ではなく葬儀場から紹介してもらったお寺さんに頼んだのだことのお詫びを申しあげ、その後も長らく正式な連絡をしていなかったこともお詫びした。住職は、この前電話で話した時ほど怒ってはいなかったが、それでも「連絡だけは当初の段階から欲しかった」と繰り返し苦情を言われた。

落ち着いて考えればその通りで、これからも一周忌などの法事をやるときにはこのお寺のお世話にならなければいけないのだから、先ずはここへご連絡をしたうえでその都度はどこに依頼するかを決めればよかったかもしれない。

次に、「お盆の生駒の仏壇へのお参りに来ていただくことついては遠隔地のためご遠慮したい。お盆にはこれまでも我々がここのお墓に参りに来ているので、それでよしとしてほしい」と述べると、それについては快く了承が得られた。というのは、大阪や奈良などからの依頼も減ったし、お盆というのは時期が集中しているため、数件のために1日を費やすとほかのお宅へのお参りの時間が少なくなるので、今年からは和歌山以外のお宅へのお盆参りは辞退することにしたそうである。それを聞いてホッとした。

お互いにわだかまりがなくなったところで、一周忌の日時の予約をして解散となった。実家も引き払った今、地元とつながるわずかな機会が法事である。これを疎かにせず、ついでに菩提寺の住職を怒らせることのないようにうまく付き合っていかねばならない。また葬儀の折は大みそかのことなので、親戚のほとんどには連絡もせずに執り行ったが、今回の一周忌にはその不義理もお詫びしつつ主な親戚へは案内も出すようにしようと、弟夫婦と話し合った次第である。
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2019/10/18

患者の「うまく診てもらう能力」  短歌

北アルプス縦走を実現するために6月初めから通い始めたカリスマ鍼灸師の受診は今日で累計20回となった。おかげで、北アルプス後もいくつかの近畿の低山に登ったが、快調そのものであり、日常生活や仕事の上でも前向きに考え積極的に行動できるようになったのだから、ありがたいかぎりである。

今日も門真市の鍼灸院まで電車で1時間半近くかけて受診してきたが、そこでカリスマ鍼灸師から「北村さんは、患者としての、うまく診てもらう能力が高いですね」と言われた。

毎回の診察の前には「最近の様子はどうですか?」と問診があるのだが、私の回答が適切なため診察する側としては適切な処置ができる、という意味らしい。

そう言えば、先日の問診の様子は「同じ痛みでも最近のそれは湿布薬を貼れば収まるようなものに変わってきました」という私の答に対しカリスマ師は「ああ、それは痛みの原因が段々深いところから浅いところに移ってきているからです。もう少しですね」というものであった。

今日の問診の応答は「最近は腰痛を感じる時のほうが半分を切るくらいに少なくなったので、たまに痛みを感じるくらいになりました。またその痛みの種類は腰の奥のほうで、どーんと重いタイプです」に対して「腰のほうの治療はほぼ終わりかけているので、今日からは肩や背中など上半身主体に切り替えましょう」というものであった。

またこういうこともあった。ある日の夜は、いつもならベッドに入ってすぐに感じる背骨のギクッという激痛がなかったので、翌朝にその旨をメールで報告したところ、「わかりました。昨日はある新しい治療法を試したのですが、それが効いたのかもしれませんね」との返答であった。

なるほど、医師でも名医と言われる人はパソコン画面や検査データ表を見るだけでなく、手を当てること(手当て)と問診がうまいと聞いている。診察する側にも上手いと下手があるとすれば、診てもらう患者の側にも上手いと下手があるのかもしれない。片方だけで治すのではなく、双方が協力してこそ治療の効果があるのだなあと感じた。

同じことは、職場での上司と部下にも当てはまるような気がして、生半可なセミナーよりは得るものが大きかった半日であった。
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2019/10/14

セミナー三昧の秋?  短歌

「食欲の秋」、「芸術の秋」、「スポーツの秋」など、秋を表す枕詞はたくさんあるが、今年の私にとっては「セミナー三昧の秋」という表現がピタリである。

今日も朝から、あるメガバンク主催の「人生100年時代フォーラム」というセミナーに大阪駅前まで行ったし、明後日は日経産業新聞の「人材採用、活用、組織づくり」のセミナー、その翌々日も京都で開催される出口治朗さんの「人生を面白くする本物の教養」というセミナーに行く。

本来はもう一つ友人が基調講演をする「エンゲージメント」のセミナーにも申し込んでいたのだが、人気があるらしく抽選に漏れてしまった。

こんな具合で様々なお勉強をやろうと意気込んでいたのだが、初手から出鼻を挫かれてしまった。というのは、今日のセミナーは併催の企業展示会に客を呼び込むためか、セミナー会場の定員の2倍の2000人以上の予約を受け付けていたらしくメイン会場に入れなかったのと、展示会主体の運営がなされていて興味をなくしたので、早々に退出してしまったのである。

やはり無料のセミナーには落とし穴があることを痛感した次第である。明後日も同じでないことを願いたい。
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2019/10/10

川柳を楽しむ  短歌

半年くらい前から、全国規模の番傘川柳会という結社に属して川柳を始めた。きっかけは、町内の日帰りバス旅行に参加したときにひとつ前の席に座った人から勧められたことである。

川柳とは、五・七・五の17音で表現する日本独特の文芸であり、それには「穿ち(うがち)」と「滑稽」と「軽み」という3要素が持ち味であると言われている。「穿ち」とはウィット(機知)のことであり、「滑稽」とはユーモア、「軽み」とはペーソス(哀歓)のことであると教わった。

私にとっては、短歌は取り組みやすかったのだが、五・七・五のあとにさらに七・七と14音も付け加えられるだけに、なかなか言葉をそぎ落とすことができず、つい説明調、標語調の歌になってしまっていた。言わば、甘えてしまっていたのかもしれない。

その点、川柳は俳句と同じく甘えを許してくれないので、初手からいかに言葉をそぎ落とすかを考えるから、かえって私には向いていると考えたのである。川柳の句会では、与えられた宿題に応えるものと自由句とがある。今の私は、お題に沿ったものだけを詠んでいるが、最近の作品をいくつか下記する。

「卵でも資格を取ればみな先生」(卵)
「老体を世界遺産にたとえられ」(遺産)
「長寿とて喜び半ば薬漬け」(長寿)
「身についた早寝早食い直せない」(せっかち)
「知らぬ間に寝る子は育つ知らぬ間に」(育つ)
「少しやせご褒美食いでリバウンド」(痩せる)
「食べてすぐ寝ても牛には何故ならぬ」(昼寝)
「無理言うな七等分の西瓜切り」(西瓜)
「呉越とて利害一致で舟に乗る」(一致)
「かの国を治すカルテはないものか」(カルテ)

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