2010/1/6

寒中見舞に思う  短歌

今朝、ある友人から寒中見舞のメールが届いた。そういえば、5日は「小寒」であった。寒中見舞は、元日に届くように賀状を出せなかったり、服喪のため賀状を出せなかった人が、小寒または正月七日を過ぎたら出すものらしい。確かに、家族や親族に不幸があった年の正月は年賀状がなくて寂しいものである。そういう時にもらう寒中見舞は嬉しいものであろう。そう感じた私は、昨年末に喪中欠礼ハガキをもらっていた人のうち特にご無沙汰している人達には寒中見舞を出すことにした。

ところで服喪の期間とはいったいどれくらいなのか、ふと気になったので調べてみたら、亡くなった方によって服喪期間は違うらしい。一般的には12ヵ月が多いそうだが、父母(養父母・義父母含む)は12ヵ月〜13ヵ月、子供は3ヵ月〜12ヵ月、兄弟・姉妹の場合は1ヵ月〜3ヵ月、祖父母では3ヵ月〜6ヵ月だそうで、祖祖父母や叔父叔母の場合は喪中としないのが通例だそうである。

また、喪中の人は神社・仏閣へのお参りを控えるようにと伝えられているが、実は正しくないそうで、神社は×、お寺は○だそうだ。神社の場合、死はケガレと考えられるので神社のお社の中で葬儀をすることはできないし、五十日祭を終えて忌明けするまで鳥居をくぐることこともできない。一方、仏教ではむしろ大切な方を亡くした後だからこそ手を合わせることが大切であるとされているので、喪中時の新年のお参りには制限がないのである。ただし新年はどこもお祝いムードであふれていて、特に初詣で有名なお寺の場合、露天も立ち並びお祭り気分満点なので、喪中時は自然と足が遠のいてしまうものである。「喪中時は神社仏閣への参拝を控えること」と言われている理由は、「お祝いムードを避ける」という意味が含まれているからのようだ。

そんなことを踏まえて、寒中見舞いを出すことにした。

「小寒に寒中見舞のメール受け我も慌てて見舞状書く」

「松明けの寒中見舞のハガキには無沙汰の詫びと近況記す」
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2010/1/5

CS度の低い会社  短歌

昨日は、あまりにもCS度が低い企業2社を知り、ホームページおよび郵便で投書を送っておいた。

1社目は、ある有料道路運営会社である。初詣を兼ねて久しぶりに使った有料道路なのだが、有名であることを誇っているのかどうか知らないが入場ゲートまでの事前の案内看板が少なすぎるのである。特に、料金や渋滞状況についての事前案内がないため、ゲートを入る前の段階で行くかやめるかの判断材料が少なすぎるのである。また行き先の各ゲートの名称が不鮮明なため、どこまでのチケットを購入すればいいのかが分かりにくい。そのためゲートの窓口では一人一人との間で押し問答が続き長い待ち時間を作りだしているが、係員はそれを何とも感じていない。通行客の急増は予測しているのに、例えば臨時ゲートを縦に増設するなどの対応策も何ら打っていない。長蛇の列ができてもあくまで自分たちのペースで淡々といつもどおりにこなしている。さらにはゲート窓口での案内は人を不安にさせるような曖昧な回答しか返ってこない。不満のまま目的地まで行ったが、そこでは大渋滞があるが何らの交通整理もしていない、という体たらくであった。

2社目は、最近、個人名義と会社名義の口座を開設した地方銀行である。近所のATMに置いてあったチラシによると、その銀行のあるサークルに登録すると時間外手数料が不要とのことだったので申し込もうとホームページを見たのだが、申し込み方法が実に分かりにくい記載の仕方であった。それを教えてあげようと、「問合せ」のタグ(バナー?)を探したがホームページ内のどこを見ても見当たらない。一方ではその会社は昨年「CS委員会」を発足させ、「CS企業宣言」をしたことを堂々と大きな文字で宣伝していた。思わず、「おたくの会社にとって『C』とは誰のことを指しているのかと叫びたくなった。CS宣言などしていなくても、「問合せ」のタグくらいはどこのホームページでも設けているのが当たり前なのに、CS宣言をしている会社がそれを持っていないのである。そこで頭取あてに手紙を出そうとしたが、本社の住所はあるものの郵便番号の記載がない。顧客や読者からの手紙などは全く想定していないらしい。一体、本気で顧客の声を聞く気があるのか、手前勝手な独りよがりのCSではないのか、と考えてしまった。

上記の2社だけでなく、最近は掛け声だけのCS、独りよがりのCSが多く、悪い意味でのお役所仕事が増えているような気がしてならず、将来が心配である。

「顧客への心配りと声を聞く姿勢の薄いおざなりCS」

「口々にCS叫べど実態は顧客の声聞く窓すら閉ざし」
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2010/1/3

初登りと三社詣り  短歌

今日も好天でありしかも気温も8度くらいあるので、生駒山への初登りに出かけた。実は元旦には初日の出を見るために夜明け前から生駒山へ登ろうとひそかに考えていたのだが、折からの大寒波で下界でも氷点下、山頂ではー5℃くらいということだし、初日の出も見ることが難しいという気象予報だったので今年はあきらめたのだが、昨年同様に正月のうちには登っておきたかったのである。

今日は自宅が登山口である。自宅前の国道163号線を南へ500m歩き、交差する国道308号線を大阪側すなわち西にとり、前にも書いた暗(くらがり)峠を目指す。峠の少し手前には前にも書いた万葉の歌碑があるので今回は写真に撮っておいた(下掲)。峠の茶屋「友遊悠」はあいにく休業である。やむなくそのまま山頂を目指す。山頂もあいにくの曇り空で、眺望はもうひとつである。それでも昨日訪れた朝護孫子寺のある信貴山は南に、眼下の大阪平野の向こうには六甲山が霞んで見えている。去年の1月2日は明石海峡大橋まで見えただけに、今年は少々残念であった。冬季休園している遊園地の休憩所にはそれでも三組のグループが休憩していた。

山頂付近の気温は2〜3℃くらいだろうか。じっとしているとやはり寒いので、早々に下山開始する。昨日は時間の関係で初詣は二社しか参れなかったので、三社目の初詣を兼ねて生駒聖天として有名な宝山寺に立ち寄る。この寺は商売繁盛にご利益があるそうで、ここもたくさんの人出で賑わっている。私は本年の家族全員の健康と安全を祈願した。

参拝を終えたあとはそのまま徒歩で自宅に向かう。自宅から自宅まですべて徒歩で、合計で約10km、時間にして約3時間弱の気持ちのいいハイキングで今年もスタートできた。

「自宅から生駒に登り自宅へと戻るコースは我の庭先」

「久々の三社詣りをやり終へて正月休みはこれにて終まふ」

  「難波門(なにはと)を こぎ出て見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく」
      (下野国・防人の歌、書:犬養 孝氏)
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2010/1/2

二ヵ所への初詣  短歌

年末から我が家に里帰りしていた長女の家族が昨夜帰ってしまったので、今朝は一人で「往馬大社」(いこまたいしゃ)へ初詣に行ってきた。自宅からは徒歩でも10分ほどで行ける往馬大社は「生駒神社」とも呼ばれ、記録に残っているだけでも「総国風土記」の雄略天皇3年(458年)というから、1550年余りの歴史を持つ官幣大社である。神奈備(かんなび:生駒山)をご神体とする日本有数の古社であり、往馬坐伊古麻都比古神(いこまにいますいこまつひこのかみ)など七座を祀っている。地鎮祭、孫の七五三詣りなど、ことあるごとにお参りする、我が家の氏神様でもある。

そのあとはグループホームに入居している伯母のもとを母と共に訪ねて、帰路に信貴山にある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)へ初詣に行った。虎と縁の深い寺と聞いていたので寅年の今年は参拝客が多いとは予測していたが、混雑は予測以上のものであった。この寺は聖徳太子の開基によるものと伝わり、毘沙門天を本尊としている。実物の何倍もある巨大な虎の張り子が飾られているのは、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一人である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したという由来によるものである。寺名はその後902年に醍醐天皇が「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺として勅号を賜ったものとされている。平安時代後期の12世紀につくられた国宝の「信貴山縁起絵巻」を所蔵している寺としても有名である。

今年の年明けは、思いつきのように二ヵ所への初詣をすることになった。しかも、いずれも我が国有数の古社古刹である。これも生駒市という奈良県の都市に転居したおかげかもしれない。今年もこの運気を大切にし関係の皆さんのご支援をいただきながら、更にいい仕事をしたいものである。二社ではそんな思いを込めてお祈りをした。

「年頭に生駒の寺社へ初詣 来たりし年の幸を願ひて」

「神奈備(かんなび)の山の麓と山並にいにしへからの神のおはして」
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2010/1/1

いつもと同じだが違う朝  短歌

今朝は元旦である。いつもと同じ朝だが違う朝である。何が違うのだろうか。今朝も愛犬チャッピーと目が合ったので散歩に出かけた時に、歩きながらふとそんなことを考えた。犬にとっては昨日も今日も同じ朝だが、人間にとっては違う。今朝は一年の始まりの朝であり、日本では元旦という特別な名前までつけられている。その違いは何なのか?犬や動物にとって同じ朝が人にとってはどうして違う朝なのだろうか。

一つには、人には「カレンダー」(暦)という道具があるからではないか。だから一日、一ヵ月、一年という区切りがつけられるし、今日が昨日とは違う朝なのである。この道具はよくできていて、人は日や月や年のサイクルに合わせて生活を送る習慣をごく当然のようにこなしている。二つには、人は「ことば」を持っているからではないか。今日が昨日と違うということを定義づけたり他人に伝えるために、ことばは重要である。そしてもう一つは、人は「意思」を持っているからではないだろうか。これらの点が人と動物との違いなのではないか。

こういう違いを持っているからこそ、人は目標を立てたり、それを必死で達成しようと頑張ったり、達成できた時は心から喜び、達成できなかった時は悔しがったり恥じたりするのであろう。また自分はこういう人間になりたいとか、どういう人生を送りたいかなどのビジョンを持つこともまた、人にしかできないことではないだろうか。

「今が人生で一番若い時」ということばがある。そんなに若いのだから、もっともっと努力をしたり挑戦をしながら、いい年をとりたいものだと考えた。今日という日は、一年の最初の日なのだから、今年をどのように過ごすのか、その目標をどこに置くのかを考えてみることにした。

「元日は三百六十五のうちのひとつの日だが一つにあらず」

「一年の計を立てなん元日に今年の目標去年(こぞ)より高く」
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