2012/10/23 | 投稿者: NAOKO

NAOKOです。

  シリーズは今回で一旦終わりになる。5回に渡って楽しみながら書くことが出来た。

  実は9月、宇部フロンティア大学で開催された日本人間性心理学会で「認知症高齢者
  を支える」というテーマのワークショップに参加した。後期(高貴な)高齢期をいか
  に生きるかの私自身の課題に関係している。その上で心理的ケア(非薬物的療法)に
  関心を持っての参加だった。高齢者が失った機能や程度が個々人で異なり、パーソ
  ンセンタードケアが重要であることを学んできた。またある機能が低下しても代替で
  きる機能が活性化され得る事を知り、何時までも高貴に生きる可能性を示唆された。
  
  今回のブログでは「眠っている記憶を呼び覚ます回想法」的表現を体験してみようと
  自ら試みたわけです。テーマに「チョッとしたモノ」を揚げたので気楽に記憶を蘇らせ
  る効果があったし、忘れかかっていたエピソードやその大事な意味などを再認識でき
  ることを実際に体験できた。そして前向きの自己肯定感をも感じえられ面白かった。
  認知症の予防のみならずアンチエージングの効果もあるように思える体験だった。

(5)レッドウッド(Redwood)のペンダント
レッドウッドとはカリフォルニアセコイアの別名で、杉科の世界三巨木の一つに挙げられ
る巨木である。1973年にこの木々が鬱蒼と林立する広大な公園(サンフランシスコ北端・
国立州立公園)に旅したときにお土産品売り場で買ったのがこのペンダントである。以来
40年近くの間ずっと気楽に愛用している。(下方の写真左にあるペンダント)

われわれ家族は1972,73年、サンディエゴに滞在した。SHOJIがロジャーズらの研究所
(CSP)にVisiting Fellowで留学したからである。(NAOKOも許可を得てミーティング
に参加できたので隔週には一緒に研究所にでかけていた。)

'72年の3月、サンディエゴに住み始めて間もなく、当初お世話になった日本人の紹介で
ボランティア英語チューターが我が家に来てくださることになった。80歳と70歳の老夫婦
だった(今の我々と同年配)。クリスチャンの彼らはわれわれ家族と親身に付き合ってく
れて食事やパーティに誘いあって楽しく過ごすことができた。当時のアメリカはゆとりの
ある国だったということが彼らを通しても分かった。・あっという間に帰国の時がきた。

帰り際の夏のこと、NAOKOの誕生日祝いに「自分たちとNAOKOの三人でサンフランシスコ
へ旅をしよう」との提案があった。SHOJIと子どもたちを残して?と私は戸惑ったがSHOJI
が「2泊や3泊位は何とかなるよ」と後押しをしてくれたので思い切って誘いを受けた。
(写真は左がペンダント。右はプレゼントのカードと彼らの写真入り携帯用アルバム。)
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普段の付き合いと一緒に旅をするのとでは大違いである。まずサンディエゴ空港で待ち
合わせた時私の目を奪ったのは彼らの荷物の多さ!! 特大のスーツケースを2個も曳い
ている。一方彼たちは私の荷物の少なさに驚いていていた。何が入っているかは着いて
すぐに分かった。次から次に衣装替えをするのを楽しんでいる。(そういえば、ラホイア
週末エンカウンターグループに参加した時にもメンバーの中にそんな人が何人もいたな)
また、ドレスアップしてフィッシャーマンズワープなどに食事に出たのはいいが、さて
料理を何にするか?で口論になる。二人は他愛のない事でも諍いになり、誰がこの場合
のボスなのかを決めなければならない大変さがあるようだった。私からはそう見えて閉口
したのを覚えている。しかしこれがアメリカの仲の良い夫婦の一モデルなのかもしれない
と理解し直してみたのを覚えている。実際いつも普段は仲良しに見えていたから。

サンフランシスコの北サクラメントに彼らの末娘が結婚して住んでいるということで次の
日はそこに泊まらせてもらった。食事中の話題は上の娘が宗教の○○学会の信者になっ
たが日本でもポピュラーかという質問から始まって親子で宗教論争になってしまった。
語学力不足もあって話に付き合えなかったが、実際当地でお経の音がよく聞こえていた。

翌日はレッドウッドの森だった。屋久島の杉は山上の方にあったが、そこはあまり高低
差のない広大な森だった。19世紀半まではもっと広かったが、ゴールドラッシュで移住
してきた人々がログハウスをつくり激減したと当時の日本語の案内書に書いてあった。
木工のお土産が沢山あって、自然破壊かな?と思いながらもこのペンダントを買った。
今はどうなのかな?(保存をするために1980年世界遺産に登録されているようであるが)

サンディエゴに帰るのに、また彼たちと飛行機に乗るのもなんか納得いかなかったので
冒険をした。当地で早朝レンタカーをしてロスまで下り、夕方になるのでグレーファンド
バスに乗り換えるという案を出した。彼らは反対したがNAOKOがそうしたいなら手配をし
てあげると言ってくれて、一人旅をすることになった。
結果、海岸沿い(ルート1)をたどって、サンタクルス→カーメル→モントレ→サンタ
バーバラ→ロス へ そしてバスでサンディエゴバスターミナルへ。夜更けになっていた
がSHOJIと子どもたちが迎えに来てくれていた。  もちろん感謝感激のひと時だった。

読んでくださった皆様。お付き合いくださってありがとうございました。
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2012/10/14 | 投稿者: NAOKO

NAOKOです。

  SHOJIはこの秋、何故か特に忙しくてゆっくりする暇もないくらいです。ブログ更新
  もなかなか難しいようです。そんなわけでNAOKOが(4)を更新します。うちうちの
  話題ですいません。ブログ中に1968年SHOJI34歳のシルエットを掲載しちゃいました。

(4)手編みベスト(よちよち歩きのこどものための)
前にも書いたと思うが私は若いころからの趣味の一つが手編みだった。多分難しい事や
いやな勉強が続いたときのリセットに好都合だったことから趣味として定着してしまった
のだと思う。もう昔のものは汚れなどで古着として捨ててしまった。下の写真左側のベス
トのみは年代もの(?)中で、唯一今でも残っている一品である。
(因みに右側ベビー服は昨年の作品で今ある手編みモノの中で一番新しいものである。)
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この年代物のベストは、はじめ長女がよちよち歩きのころ体温調節用に編んだものだ。
しかし着る時期が短くあまり使わなかったので長男にも着せ次男にも使うことが出来た。

下の写真は古いモノクロ写真で見にくいが、長男がこのベストを着ている。後ろ向きの
男性はもちろんSHOJIである。34歳くらいで福岡へ移住してすぐの頃。まだピカピカの
新米教官だった。冒頭に書いたような今現在と違い時間のゆとりがたっぷりあったようで
よく子連れで散歩などをしていた。学生たちともよく話しよく遊んでいた。ファントムが
Q大キャンパスに落ち、安保反対の学生運動が激しくなる少し前の穏やかな時期だった。
護国神社の境内で群がるハトに豆をやっている一コマ。
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 その後3人のこどもが使わなくなたベストは箪笥の端に収まっていたが、卒業生などが
次々に子連れで来訪するようになり、近くの公園にちょいと遊びに出るときにはこれを
マイバックに忍ばせていた。その子たちのちょっとした肌寒さを防ぐに重宝するからだ。
そうそう孫たちが我が家にお泊りするときにも出番があった。

 今クリーニングを済ませたこのベストは、年代物といってもプレミアつきで売却する
 わけにもいかず、次の出番を待っているように見える。
  
 そして私自身は昨年以来、老化現象からか指先に違和感が生じたので手先の仕事は控
えていた。が、このブログを更新したことで、何故か指のことなど構わずにまた暇を
みつけて自分のために、誰かのために編み始めようかという気持ちになっちゃっている。
 やっぱり好きなんだフフフ・・・。
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2012/10/4 | 投稿者: NAOKO

NAOKOです。

(3)コッピー(=あかひれ)
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 コッピーが我が家に来たのは孫娘のS穂が保育園の年長組になった初夏の頃である。
ある日近くにあるスーパーマーケットに連れだって行き「お花を買って帰ろうか?」と
私が提案した。花売り場には広いスペースを使って色とりどりの花々が並べられていた。
「どれにしようか?」とS穂の方を見ると、S穂は陳列の片隅にある小さなビンを指さし
「これが欲しい。」といった。見ると中には生まれたばかりのメダカが泳いでいた。
花屋にメダカ? 私は固定観念があってかそれまで目には映らなかった。がS穂の目には
留まったようであった。

 生き物を飼育するなんて、日々多忙な我が家では無理!と咄嗟に思った。S穂の方は
お構いなく「これがいい」と相変わらず主張するので、そばにあった説明書を読んでや
った。熱帯魚に比べ飼いやすく丈夫な“あかひれ”という魚であることがわかった。
成魚は4cm位になり、原産地は中国。寿命は2〜3年とあった。「寿命ってなに?」
と聞くので、その場で「病気に罹ったら治らないで死ぬこともあるが、病気でなくても
年数が経つと自然に死ぬことを寿命と言うの。これは2〜3年したら死ぬよということ」
という説明をした。「わかった」と納得したので買うことにした。600円位だった。
 コッピーと通称で呼ばれるのは、コップのような小さな条件の良くない環境でも育て
られるという意味らしいことも分かった。(実はビンの中には3匹いたのだが一匹は
買って帰ってから数日で死んで跡形もなかった???共食い???)

 我が家で飼育することになった。というのも当時はS穂のママは体調がすぐれず、私
が自分の仕事の行き帰りに保育園への送迎をし、夕食も我が家で一緒にしていた事情が
あったからである。ビンではあまりに狭すぎると判断して大きい目の金魚鉢を買って帰
った。水道水のカルキ抜きをするために溜めおきをしてから、水草、金魚鉢用の砂利を
入れて環境づくりを共にした。あまり餌をやりすぎないようにという注意書きに従って
2,3日に一回、市販のコッピー用の餌を与えていた。たまには溜め水で水かえもして
やった。S穂は楽しみながらじっと眺めたり、こっちの方が意地悪だよ、と言ったりし
て、面倒を見ていた。

 S穂は小学校3年になったころは、学校帰りも一人で彼女の自宅に歩いて帰れるよう
になり、我が家に来る回数は少なくなってきた。けれど、来たときには先ずコッピー
に餌をやり「大きくなったけど子どもはまだか」とか「4年目だけれど寿命は?」と
質問してくることもあった。私も「そうだね」と言いながら、うちは長寿の家系で、お
じいちゃん(SHOJIのこと)のお父さんは103歳まで生きたのだから・・と話をそちら
に向けたりしていた。

 6年生になったS穂は、学校でも日本メダカの飼育係を引き受けたらしい。そんなこと
もあって、日本ではメダカが育つ川が少なくなったという環境問題やメダカはどのよう
な環境が必要なのかも調べるようになった。
 うちのコッピーが長生きしているのは「コッピーがCO2を出すと水草は光合成で酸素
をつくって、フンのアンモニアや病気の菌などは水中のバクテリアが分解しているのよ。
この三つのバランスがちゃんと整っているから長生きしているのだろうとおもう。学校
のメダカ飼育の本に書いてあった。」と科学的に説明し私に教えてくれるようになった。
子どもが生まれないのは・・・?「隠れるところがないからだろう」と、水道ホースを
切り取って鉢に入れたりして着卵を促していたが、効果はないままである。

 現在S穂は中学一年生。“あかひれ” も成長したが、S穂もしっかり大きくなり何と
身長は1m64pにもなっている。小学生時で既に私の身長を追い抜いた。うれしいこ
とである。それにしても、うちの“あかひれ”は写真でご覧のようにまだ元気で食欲も
旺盛である。今現在で8年半は生きていることになる。世界記録を更新するつもりなの
であろうか? ただ103歳も生きることはないだろうから、別れが近いということは
間違いない。
 
 それを思うと一抹の寂しさが私の心中で漂う。
 

 




 
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2012/9/28 | 投稿者: NAOKO

NAOKOです。

(2)サクララン

 もう30年以上前になると思う。
 当時福人研の月例会などに参加されていた若い女性(当時のこと)から観葉植物と思
しき植物の小鉢をいただいた。肉厚の葉っぱが4,5枚付いていた。「もう根づいた頃
でしょう」「葉っぱのふちが薄緑やピンクになったりするので面白い植物ですよ。」と
いう説明をしてくれただけで、その植物の名前を彼女も知ってや知らずや?私に教えて
くれないままだった。私もその時、訊ねたりもしなかった。

 彼女は多分東京生まれの東京育ちだったと思う。何でも東京の超有名女子大を卒業さ
れて語学に堪能な人だった。福岡へ仕事で来られ何年間かは福岡の住人だった。慣れな
い土地で気楽に話せる人も少なかったためか、私や福人研の月例会などでは心置きなく
話され、福人研周辺ではほっと自分を取り戻せる「場」になっていたようだった。

 東京に戻って仕事をされることになり、福岡を引き上げる際にこの鉢植えを、先述の
ようにその名も告げずに置いて行かれた。
 SHOJIとNAOKOが赤坂研を立ち上げたのが1985年なので、そのしばらく後からはずっと、
唯一の鉢植えとして、研究所の大部屋で鎮座してきたのである。窓際の片隅に置かれて
いたのでほとんどの人は存在すらも認識していなかったようだが、植物は人々の「講和」
や「つぶやき」を肥やしにして肥ってきた。日月が経って成長するにつれ、これはつる
性の植物であることが分かった。私は「そうなんだ」と支柱を立ててやった事もあった。
 世話としては鉢が小さくなったころには少し大きい目のものに取り替えたり、土が乾き
葉っぱが水を欲しがっているように見えた時には水を与え、ごく稀に液体肥料を土に差し
込んでやる位で、大してお世話というお世話はしていなかった。

 ところが突然(2006年)、不思議な放射線状のふさが伸び出し実のようなものをその
先に付けているのを発見した。何だろうと思って毎日眺めていると、堅い実のようなも
のがはじけてかわいいピンク色の花々になった。驚いた。
観葉だけではない花も咲く植物だったのだ。

 無条件に肯定的な付き合いをしながら、過程を楽しみ成長を見守る原則、が証明され
ているではないか(フフフ、なんか聞いたことのある理論!)!
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 この頃赤坂研に来ていた人々に名を訊ねたが、即答できる人は誰もいなかった。
しかしその数日後からはいろいろと調べてきてくれた方々が「サクララン」という植物
だろうと教えてくれて、やっとこの植物の名前が明らかになった。

 今回ブログを書こうと思いついて、学名等を検索してみた。
学名: ホヤ・カルノーサ    ガガイモ科 サクララン属(ホヤ属) 
   (英国人HOYさんの名前に因んでいるらしい)                  
原産地: マダガスカル、          
   蔓性常緑多年草 非耐寒性 暑さには強い 半日蔭 蔓が延びて花を付ける特性
などが分かった。 
 もっと驚いたことはその花言葉である。
 『人生の出発』『同感』『満足』   とあった!!!!


 実は彼女との別れの後は、すっかりお互いの音信は途絶えてしまっている。
しかしあの時彼女は、何年も経って(実際には20年以上も過ぎて)から観葉植物がサク
ラランとして開花するだろうと見越して「花言葉(人生の出発・同感・満足)」のメッセ
ージを贈ってくれたのであろうか?
 もしそうだとすると、すばらしく遠大な予測力と洞察力の持ち主だったと言える。一方
でこの意味づけは、ただの偶然の巡り合わせだったとも考えられる。でもでもたとえ偶然
だったとしても、私にとっては大事な意味を感じさせてくれるものになる。
 それは、彼女にとっての今日までの日々が、きっと滞りなく過ごせていた日々であり、
もはや高齢期に達しているはずだとしても、きっと充実した日々を送っておられるに違い
ないと私には推量出来るからである。

 

    

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2012/9/20 | 投稿者: NAOKO

NAOKOです。

 SHOJIと知り合ってからもはや五十数年になる。むろん二人共通の思い出や大切なモ
ノも多くある。しかし今回は私が永年付き合っているチョットしたモノや生き物にま
つわるお話を思いつくままに書いてみようと思う。シリーズになるかもしれない。

(1) 針刺し
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 長い年月の間には私の裁縫箱も傷みがひどくなり何回かは取り替えた。しかし何時
も針刺しだけは変わらず、はんなりと次の裁縫箱に収まっていた。
写真の裁縫箱はそれでももう30年モノになっているし、話題の針刺しに至っては私の
18歳に遡ってから以降のもので、単純に引き算するのもややこしいくらいだ。

 さて古い物語を始めると、18歳の私は、大阪市内北部に住み、大学生だった。
初めておっかなびっくりのアルバイト家庭教師をし始めた。生徒は二人。
自宅から徒歩5分ほどの近所に住む六年生女子だった。
週に2回、一カ月交代でそれぞれの家庭を勉強場にしていて、帰りは夜になるので女
子二人(大学生女子ともう一人の六年生女子)を当番の母親が送ってくれることにな
っていた。謝金もその月の当番の家からいただいていたように覚えている。

 この工夫に無理がなかったようで、結局彼女らが高校生になるまで続いていた。
家庭教師最初の年のクリスマス、彼女たちが自分の小遣いを出し合ってプレゼントし
てくれたのが写真にあるかわいい針刺しだった。
私が高校時代から自分の着る服が自作のものだったのを彼女たちは知っていて(多
分私が自慢していた?)これを選んでくれたのかもしれない。

 結婚後も三人の子どもたちの服や、今でも自分の服、SHOJIの服の修繕等の裁縫の
時には必ずこの針刺しから針の抜き差しをしている。
(最近は老眼がすすみ針に糸を通すのに苦労するようになっているが)

 生徒二人の内の一人とはその後、同じ高校の後輩になった(大学は彼女は別大学
理系)こともあって年賀状などの交際は続いていた。

 ところが不思議なご縁というか、15年ほど前には彼女の二男が福岡のQ大に入った。
このことでまた再会を果たし、つながりが濃くなっていった。
何とも面白い巡り合わせがあった。Q大の彼が教養部時代は赤坂研の近くに大学も
あり下宿先も近くにあり、その上農学部で土いじりが好きだということを聞いたこ
とから、赤坂研の庭を管理してもらうことになった。
いわば彼にとって初めての学生アルバイト先になったわけで、本当に面白い巡り合
わせというものだ。
 彼が当時は箱崎にあった本学(いまは糸島市にあるが)に移るとき、これからは
あまり来られないと言って、赤坂研の庭にサクランボの苗を植え付けてくれた。
6,7年目からは毎年赤い実をつけてくれるでしょうと説明してくれた。
いまでは写真の様に成長して、その時期月例会があった時には、サクランボ狩りを
したり、別の日に仲間を募って摘み取りを楽しんだりしている。
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 彼は大学院終了後、企業の研究室に就職して長崎に転勤したまでは連絡をもらっ
たが、その後の詳細は知らせてきていない。きっと忙しくしていることだろう。

 私の初バイトの生徒だった彼の母親とはいまでもメールでお付き合いをして情報
交換をしている。彼女の方は2,3年前から夫氏の大学定年退職を機に北陸の○○県
科学学園というNPOを立ち上げ、地域のこどもたちが科学に親しみを持てるように
とコミュニティ活動を始めている。不思議な縁というか生きる方向性が似ているよ
うで感心している。

 長い年月の物語を書いた。けれども今回のタイトル「針刺し」については頂戴し
てから一度も直接彼女に話したことがない。
もしこのブログを読んだとしたら驚くだろうと思う。
いや、それどころか全然覚えていないと言うかもしれないな(フフフフ)。
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