私の母は40歳を過ぎて私を生み、ようやく歩けるようになった私を連れて、空襲警報の鳴り響く中、豊橋の市街地を逃れ、親せきの家へ着の身着のまま、三谷、大塚、国府、蒲郡へ、転々と数カ月ごとにお世話になり、やがて岡崎の母の生まれた土地へ移ってきました。
テレビで、砲撃に遭ったウクライナの市街地や、ウクライナから避難する人々の映像を見る度に、他人ごととは思えないのです。高層ビルのなかった豊橋の市街地は「焼け野原」と化し、そこに人が住んでいたとは思えないほど、跡形もなかったのです。
「母は 強し」と、よく言われますが、母は戦前戦後の食糧難時代の苦しみの中で必死に子どもを育ててきました。幼い子を抱えて、母は、貧しくても精神的に強くならないと、子育てすることが難しく、子どものためには、何でもすると覚悟を決めていたと思います。
何よりも救われたのは、母には岡崎で先祖が残した宅地・田畑や山があり、コメ・野菜やムギを作り、山から木材を切り出して家を建て、家畜を育てて生計の足しにし、食糧難時代を切り抜けてきました。
戦争というつらく悲しい時代に、例え貧しくても家族がいれば支え合って生きて来られたのです。そんな親を見て育ったおかげで、農作業は抵抗がなく受け入れることができています。
現在、日々 元気で過ごすことができるのも、育ててくれた母のおかげです。感謝・合掌

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