今年も、6月20日が近づいてきます。
1945年(昭和20年)6月20日、豊橋大空襲から71年目を迎えます。B29爆撃機136機が豊橋上空に飛来、三時間余にわたる空襲を行い、爆弾によって市街地の7割が焼けてなくなり、多くの命が一瞬のうちに消えました。
豊橋市花田町稲場、花田小学校の近く、屋号「廣田屋(和菓子)」の店舗兼住宅も全焼して、一家5人、命からがら逃げた日なのです。
家を失った私の一家は、御津町、国府町、竹島町など親戚を頼って転々と移り住む暮らしでした。食べ物のない時代でしたから、さぞ親戚へは迷惑をかけたと思います。もちろん仮設住宅や義援金、ボランテイアなどない時代でしたから・・・・・。
戦後数年がたって、母の出身地、岡崎へ家を建てて移り住んだのですが、相変わらず食べ物の不足は続いていて、コメ・ムギは政府の管理下(食糧管理制度)に置かれていました。
小学校時代の昼食は、アメリカからの緊急援助物資「脱脂粉乳」とコッペパンが主食で、給食のおばさんが作る「イワシやアジのフライ」が大好きでした。体育の時間は運動場が芋畑だったことから、石拾いから始まったことを覚えています。
木造校舎の教室やトイレの窓ガラスは、爆撃のときの衝撃で飛び散るのを防ぐため、細長く切った障子紙が米印に貼られていたのが印象的でした。
1960年(昭和35年)6月20日、私の父は病床で私をジーッと見つめてから静かに目を閉じ、眠る様にこの世を去りました。
梅雨時のこの日は私にとって忘れられない日となりました。

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