1945年(昭和20年)6月19日の真夜中から20日にかけ豊橋市街は、B29爆撃機136機が豊橋上空に飛来、三時間余にわたる空襲でした。豊橋市花田町八幡宮の近く、和菓子店をしていた我が家も全焼、一家5人、命からがら逃げた日なのです。
そして、戦後の暮しは現在のように食べ物の豊かな時代ではありませんでした。食べ物の好き嫌いは許されなかったのです。最近では血圧で塩分を控えるとか、糖分は如何とか、食べ物に気を使う日々ですが、食べ物の好き嫌いは許されなかったのです。
和菓子店を経営していた父は、菓子職人として修業し店を持ったものですから、焼け出されて岡崎へ来てからも、農業と日雇いで働く傍ら、物のない時代に人から頼まれて結婚式の引き出物の菓子などを夜なべして作っていました。
痰切り飴(麦芽とでんぷんを合わせて作ったもので、麦芽に含まれる酵素(ジアスターゼ)により、でんぷんのブドウ糖分子が細かく分解され水飴)や、
落雁(米などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して乾燥させた干菓子)、
そして、プロの味が解ると云う
薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)、すりおろしたナガイモの粘りを利用して米粉を練り上げ、その生地で包みしっとりと蒸し上げた饅頭など、数多い種類の菓子を少ない材料を工夫して見事に出来上がるのを見るのが楽しみでした。
私の父はタバコを欠かせない人で、菓子を作っていない時は常にタバコをふかしている姿が今も目に浮かびます。コウモリの姿が描かれている緑色のゴールデンバットを、現在と違って「タスポ」なるカードはなく1カートン毎に買いに行かされました。
浪曲の好きな父は、広沢虎造の「清水次郎長伝」、寿々木米若の「佐渡情話」などラジオで聴いている姿を思い出します。酒のみの父はもっぱらドブロクや焼酎を飲んでいました。なぜか現在普通にあるビールの姿を見たことがありませんでした。当時、日本酒は金額が高かったので、めったに手に入らなかった様です。
6月20日は、還暦を迎えて直ぐこの世を去った父の命日です。私は父の亡くなった年齢をとっくに越すことができ感謝しています。 ・・・・合掌・・・・・。
長男から「父の日のプレゼント」で送られて来た 半田・中埜酒造製 『国盛』(日本酒)

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