6月20日は私の父の命日です。また、この日は豊橋が空襲爆撃を受けた日でもあり、毎年この日になると、幾つになっても亡くなった父の事を思い出すのです。戦後の生活の苦しみは、我が家だけでなく多くの人が苦しい思いをし生き伸びてきたのですから、忘れることはできません。
私の暮らしは、父親が亡くなると経済的にもドン底に落ち込み、農業収入では生活できず、山林の木を売り、田畑を売却して生計を立てていました。学校へは母の勧めで、奨学金を貰いアルバイトをしながら通ったものでした。
経済的には戦後を忘れるほど成長し、物は豊富になり生活物資はおカネで簡単に手に入れることが出来、暮らしも豊かになりました。安保改定50年という節目に、国の安全保障について、根本から見直す時期に来ているのではないでしょうか。
本土の反対運動で米軍統治下の沖縄に基地を移転したものもあり、戦後が終わっていないと思う沖縄の人たちは、「本土による押し付け」を意識していて、今回の普天間の米軍基地移転について私達は「最低でも県外」と期待をあおり、結果的に裏切ってきたのです。
早く戦後を終えたいという気持ちは誰も有りますが、政府は日本とアジア太平洋地域の平和と安全を守るために、自衛隊の防衛力を如何にするか、米軍との関係をどのようにしていくのかを議論、交渉する必要があります。それをしないで沖縄の人たちと約束のような事をしないでほしいと思います。
戦火を潜り、命からがら生き延びてきた両親は、戦中戦後の混乱期の状況をあまり語ろうとしなかったので、私には正確な情報が伝わってこなかったように思います。飛行機音が聞こえると、B29爆撃機に聞こえるといい、灯火管制を思い出すと云ってローソクの炎の灯りを嫌っていました。
私はいま、亡くなった父の歳を越え、その分まで日々感謝して生きています・・・・・合掌。

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