仕事帰りに姉宅を訪ね昔話をする中、豊川海軍工廠で焼夷弾爆撃を受けた話になりました。姉は豊橋市立高等女学校に約3年間通い、4年生は海軍工廠で医事担当をしていたそうです。昭和20年3月には卒業式のみ学校へ行き、同年6月20日に自宅と店舗を爆撃で失い、その後も国府町の親戚から学徒として工廠まで通っていたとか。
昭和20年8月7日快晴、午前10時ごろ米国航空軍のB29爆撃機の空襲を受け、海軍工廠では「総員退避」の放送があり、一旦は防空壕に逃げ込んだものの危険を知らせる連絡があり南門から走って逃げ出したそうです。工廠の中心部で働いていた同級生の多くが防空壕の中に火が周り逃げ遅れて、尊い命が奪われたとか。
同僚が国府町まで逃げて歩くというので同行すると、途中の女学校の講堂は負傷者の退避所となっていて、大火傷して「水をください、水をください、水・・・・」と最後の力を振り絞って叫ぶ人で一杯、今でもその悲惨さを思い出すとやりきれない気持ちになると話していました。
翌日から数日間、豊川駅付近は死体の山、近くを通ると物凄い悪臭が漂い、その恐ろしい光景は思い出すのも嫌だと語っていました。翌日の新聞には、瞬時に約3,000人近い命がなくなっているにもかかわらず、「豊川付近に爆撃、若干の被害が有った模様」と報じられていたとか。広島、長崎に原爆投下の中間日ということもあって、軽く扱われたと姉は怒っていました。
その後、焼夷弾の落ちる恐ろしさに比べ落雷など怖くは無かった。しかし、今でも航空機が低空を飛ぶ音に暫くの間、嫌な気持ちになることもあると話していました。
先日姉宅へ、京都から大学生の孫が来て、戦争の体験話をしてやったら驚いていたとか。外国では未だに嫌な思いをして戦争の最中の人がいると思うと遣りきれないとこぼしていました。
戦争する国や核兵器を開発する国へ軍事兵器転用の出来る製品を不正輸出している日本企業があるという報道に驚くとともに、国際社会に対する重大な犯罪を許せません。捜査当局の徹底解明を強く望むものです。

戦禍を生き復元された旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎(現・名古屋市市政資料館・国の重要文化財)

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