旧北海道庁の赤レンガも何度かの雪化粧を繰り返し、年の瀬も極まった感じである。個人的には新年特集号の作業で商売の方がさすがに忙しく?なって来た。結果、ブログの更新が少々スローペースだ(笑い)。
士心塾で新渡戸稲造先生の「武士道」の読みを続けているが、これは奥の深い著書だ。今のところはアウトラインの把握を主眼に進めているが、本格的な読み込みとなれば膨大な検証作業が必要となるは必至である。
今、士心塾で必要なのは先生の著書を通した武士道の歴史的概略を概ねで把握し、その心を理解することだと思う。そして、それを実生活に活用するが一番大切なことではあるのだ。武士道は知識のための知識を軽視する・・・。
単なる知識は武士道の道徳性に付き従う程度のものである。心と知識が一体となり、実生活で運用されてこそ、その集合体は武士道の至高の叡智へとその階段を一歩ずつ登り始める。これは、まさに日々の修練と同一のものであろう。
学生時代に社会政策史を専攻していたが、頭でっかちの若者が集まり口角泡を飛ばす議論は珍奇で非常に面白く、かつ楽しくもあった(笑い)。何と言っても実生活の経験が乏しい連中の言うことであるから・・・内容は大笑いではある。
その中で私は民族主義者と揶揄された。私はこの時、自己主張が強く経験の薄い自信家ほど他を認めず、他を研究しないことが判った。自分の持つ主義主張の枠に全てを封じ込め、その尺度で何事をも理解しようとするのだ(笑い)。
ともすれば、日常で私たちもこれと同じことを繰り返しているのではないか?封建時代末期から近代民主主義への転換期を武士として市民として、またキリスト者として生きた新渡戸先生の言葉を、その深奥を文字だけで理解し活かすることは難しい。
知識は単なる道具にしか過ぎない。されど、知識によって救われる命もある・・・か。
しかし、知識を行によって叡智へと至らしめるは、徹底した己の修練によるしか他に術は無いのではある。

0