
去年の夏から、庭で育てていたWhite Sageが実をつけ始めた。
放っておくとウズラの一家に種を食べられてしまうので、暇を見ては収穫している。
枯れた枝をしごくと、茶色くなった花から直径2ミリくらいの黒い種子がぽろぽろ落ちてくる。
手には樹液が真っ黒に残り、 →続きは、たった2株、をクリック

Sageの高い香りが漂う。
結構手間がかかり、20分ほどやって50粒ほどが取れただけ。
去年は100粒ほど植えたが、そのうち芽を出して大きくなったのがたった2株。
寒さに耐え切った株から残った種なので、耐寒性は高いだろう。
これから取れた種を取っておいて、また植えてみようと思う。
なぜWhite Sageを育ててみたかと言うと、ネイティブ・アメリカンが作るSageのSmudgeをいつか作ってみたいと思ったからだ。

スウェット・ロッジのときにかぐ香りが「いいにおいだな」といつも思うので、いつか作ってみたいというのが、単純な理由だ
マウント・シャスタに来る人の中に、野生のSageが生えているのを教えると、やたら「Sageは浄化してくれるのよ、とってもいいのよ」と大はしゃぎする人がいる。
中には1m近いSage Bushの株を前に、日本へもって帰りたいと熱望する人もいる。

そういう人に限って「浄化、浄化」と言うが、何をどう浄化するのだろう。
そんなに浄化しなければならないほど、身も心も汚れているのだろうか。
果たして、浄化することはいいことだけなのだろうか。
僕ちんはSageがスピリチュアル系の世界では、どういう意味を持つものなのかは知らない。
またSageの効能やそれにまつわる伝説も知らない。

だが本当の意味での浄化というのは、Sageを自分の手で育ててみたり、Smudgeを作ったりというシンプルな作業から、自分を見つめ直したり、大自然の恵みのありがたさを考えることなのではないだろうか。
ただマウント・シャスタへ来てSage Smudgeを買って帰ったり、家でSmudgeを焚き、ネイティブ・アメリカンのまねだけしてその煙を浴びてみたところで、心や体が浄化されるとは思わない。
大事なのは、Sageを育てた人の苦労とか、時間を費やしてSmudgeに巻き上げた人の手間に思いをはせ、感謝することではないだろうか。

同時に大自然が作り出した香り高い煙を吸い込みながら、人間性の向上を図る時間をゆっくり取り、Sageが育った土地の環境、そこに暮らす人々の文化、価値観、人生観を学ぶことが「浄化」という作業なのではないだろうか。
世の中の汚れた事実から、目をそむけるのは簡単だ。
だが醜いものや汚いものを否定したり、怖いものを見たり聞いたりしないことが「浄化」ではないだろう。

そいうった汚れた事実を直視し、そこからどうすれば改善できるか、どうすれば人間性の向上を模索できるのかを理解できるようになって、初めて「浄化」の意味が分かるのではないだろうか。
最近マウント・シャスタへ来る人の中に、スウェット・ロッジに参加して煙を浴びたり、Smudgeを買ったりするだけで「私は浄化された」と思い込む人が多い。
そういう人に限って自分では何の努力もせずに、どこへ行っても他人の親切にただ乗りして旅を楽しみ、ラッキーだったと大喜びするだけで感謝のひとつもしない。

どこかが違っていると思うのだが…。
せっかくWhite Sageを育てても、こんな愚痴しか出てこない凡人の僕ちんは、まだまだ「浄化」されてないのだろうな。

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