いつも喜び、 絶えず祈り、 すべてを感謝する。 そのような日々を過ごしたい。

2021/2/26

短歌 穂村弘  ひと

文学の中にも、いろいろあり、短歌・俳句は、
どうもニガテ。

詩は好きで、たくさん読んできました。

このたび、穂村弘という歌人を、遅ればせながら知りました。

俵万智が注目されていたころ、この人もあらわれていたらしい。
『サラダ記念日」は、買って読みました。

穂村弘の最初の作品「シンジケート」は、いまや高額。
図書館にもない。

『水中翼船炎上中』という新作は、図書館にあったので読んでみます。

『短歌ください』という、多くの短歌愛好者の優れた、面白い短歌を集めて、
本にしている。

短歌を広めたい、広報官であるようです。

確かに、友達と好きな映画、好きな作家のことは話しても、
好きな短歌は?とは言わない。

私が、短歌や俳句を作れないのは、
上手な、しゃれた歌を詠みたいという意識が強いからだと思います。
その殻を破らないと、歌は詠めないのだろう。。。。

頭ではわかっているのですが、
できません。
永遠に作れないかも。


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  つくし (花が好き えんどうみのるさんからお借りしました)
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2021/2/23

『掃除婦のための手引書』 ルシア・ベルリン 岸本佐知子訳  

この本も、高橋源一郎の飛ぶ教室で紹介されました。
図書館に予約して、ずっーと、ずーっと待っていて、やっと順番がきました。
私の後にもまだ予約者がいます。
読みたいと思った人が、同じ市にたくさんいるのは、
なんだかうれしい。

翻訳者の岸本さんが、衝撃を受けた・・・・とおっしゃっていましたが、
本当です。

短編集で、まだ全部は読み終えていませんが、
これはすごい!

2004年に68歳で、癌で亡くなっている。
1936年アラスカで生まれ、その後アイダホ、ケンタッキー、モンタナと、
鉱山技師の父親の転勤で、あちこちへ。

父親が第2次世界大戦に従軍。帰還後は、チリのサンチャゴに移住。

祖父と母と叔父が、アルコール依存症で、ルシアもアルコール依存症に。
回復後、90年代には、サンフランシスコの群の刑務所で創作を教える。
3回の結婚と離婚をして、4人の息子をシングルマザーとして育てた。
仕事は、高校教師、掃除婦、電話交換手、ERでの看護師など。
20代から、体験したことをもとに小説を書き始めていた。

最後はコロラド大学の准教授になる。

1977年に初めて出たこの本「Manual for Cleaning Ladies)によって
同時代の作家たちに衝撃を与え、のちの作家(レイモンド・カヴァー、バリー・ハナなど)にも影響を与えたが、「知る人ぞ知る」という作家にすぎなかった。らしい。

2015年『物語こそすべて』が出版されて、ルシア・ベルリンは、死後有名になった。
生涯で76編の短編小説を残し、43編が出版され、日本語訳は24編。

この本は、2019年の6月初版。

わくわくしながら、残りの短編を読もうと思います。


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 シャコサボテン (「よしみが行く」さんからお借りしました。)

    いつもお写真をありがとうございます。
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2021/2/20

『殉教者』 加賀乙彦   ひと

加賀乙彦の『殉教者』を図書館で借りました。
期限が近づき、急いで拾い読み。

1633年 イエズス会管区長代理だったフェレイラが棄教。
 彼はその後、幕府のキリシタン弾圧に協力した。

仙台藩の伊達政宗は、支倉常長を支援していたことを知った。
 そのこともあってか、九州、長崎などから東北へ逃げたキリシタンが多くいた。

1637年 島原の乱
1638年 キリシタン弾圧が、より激しくなる

1639年 ペトロ岐部が、キリシタン長次郎の裏切りにより捕縛され
    江戸へ送られる。
 このペトロ岐部が、この小説の主人公である。
 長崎のセミナリオで勉強し、両親と弟もキリシタンであった。
 エルサレム巡礼、ローマ訪問。司祭に任じられる。
 その後、布教のために、日本に帰国。

小石川の伴天連屋敷に収監され、その後、小伝馬町の牢屋へ入れられる。

最後は、二人の神父(ポレロ神父と、式見神父)と共に逆さ吊りの刑に処せられる。
その拷問に耐えかねて、二人の神父は棄教。

ペトロ岐部は、殉教する。

資料のある部分と、全くない部分があり、
加賀乙彦は、実際に自分も、岐部のたどったであろう旅を体験し、
不明の部分は、想像力と夢想で書いたという。

ペトロ岐部の最期は、祈りの言葉で終わっている。
それは、54歳で信仰を持った、加賀乙彦の信仰告白かもしれない。

1644年 小西マンショが、最後の殉教者。

美しい文章の最後のところを写します。
**********
(苦痛が去り)
満点の星が、きらきら光り近づいてくるのが見えた。
宇宙を支える巨大な闇に
われはするすると呑み込まれていく。
*********

自分の最期が、このように宇宙への回帰として体感できたら
しあわせだと思う。

しかし、死は眠り。
目覚める時が、復活のとき。
キリストの再臨のとき。

主の十字架の時に、主を知らないと3回も言ってしまった
ペテロ。
主のまなざしは、すでに赦しを与えていた。
信仰がなくならないように、ペテロのために祈ってくださった。

殉教者になれた人、ペトロ岐部を思います。

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 蝋梅(「よしみが行く」さんからお借りしました。)

  なんだか、切ないお話ではあります。
  キリシタン弾圧の歴史を知るのは、苦しく辛いです。
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2021/2/17

やっぱり 本田宗一郎さん  ひと

かねてから、本田宗一郎さんを尊敬していました。

このたび、カルチャーラジオのアーカイブスで
本田宗一郎さんの肉声をお聞きした。

74歳とのきのもの。

まず思ったのは、とても謙虚な人だということ。

バイクが好きで好きでたまらない人。
情熱を傾けて研究する人。
食べに行くのは、自分のお金で。
社員は、見ている。だから社長が、会社のお金で飲食をしていてはいけない。
 交際費で、飲めよ歌えよの人たちに、聞かせたい。

若い人を育てることを優先していた
「作って喜び、売って喜び、買って喜ぶ」
創意工夫、知恵を絞って、考え、実験することが、好きだからできた。

自分の会社には、そのような若者がたくさんいるという。

会社は、本田個人のものではない。
株式会社なのだから、株主のもの、社員のもの。
息子に社長を継がせない。


以前、読んだ本田宗一郎さんの本の中に、
社長を退いて会長になってから、日本中の本田の工場を回ったそうだ。
そして、社員みんなと握手をした。
ある社員が、自分の手が、油で汚れているいるので、躊躇していると、
その汚れが尊いのだよと、堅く手を握ったとか。

世界にその名を広めたのは、本田宗一郎さんの熱意と、
会社経営の責任をすべてになった、副社長の藤沢武夫。
彼がいなかったら、今日の自分はないと言い切る本田宗一郎。

素晴らしい人でした。

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  椿 (「よしみが行く」さんからお借りしました。)

    いつもありがとうございます。

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2021/2/14

榎本武揚(えのもとたけあき)  ひと

最近、あまり見ていなかった、「ザ・プロファイラー(追跡者」を、また録画するようになりました。

榎本武揚については、2つ疑問がありました。
1.なぜ、北海道、函館・五稜郭へ行ったのか。
2.なぜ、戦に負けたのに、その後の明治政府の官僚になったのか。

このたび、その理由が分かりました。

まず、生い立ち。
父は旗本・幕臣であり、伊能忠敬の弟子であった。
ゆえに、家に地球儀もあり、世界の中の日本の位置を知っていた。
天文学、星、宇宙をみていた。
1854年箱館奉行田辺石庵の従者として、蝦夷地・樺太巡視に随行した。
長崎海軍伝習所で、機関学、化学を学ぶ。
オランダ語を学ぶ。
ジョン万次郎に、英語を学ぶ。

オランダに留学して、砲術、蒸気機関学、国際学などを学ぶ。
1866年蒸気軍艦関陽丸で帰国。

関陽丸の軍艦頭(館長)になる。

榎本は抗戦派であり、大政奉還を不服とした。
北海道開拓という名目で、函館を目指した。
それは北の大地・北海道の可能性を見ていたからだろう。

途中、仙台で、新選組の土方歳三など隊員と会う。
桑名藩主松平定敬、大鳥圭介ほか、旧幕臣3000名と共に8隻の船で函館に向かう。

敗者となったあとのこと。
自刃しようとしたが、部下が刀を握って止めた。

敵将、黒田清隆らが、その能力を惜しみ助命嘆願した。

駐露特命全権大使として手腕を振るう。
その後も、逓信大臣、文部大臣、外務大臣ほかを歴任。

1885年徳川育英会を作り、旧幕臣の子弟の育成に尽くした。

自分が若き日に学ばせてもらった多くの恩を、
次世代に引き継ぎたいという思いが強くあった。

なによりも、世界を見ていた。
広い視野を持ち、外交能力にも長けていた。

箱館で、死を覚悟したときに敵将黒田清隆に贈った「国際法」の2冊の本。
榎本も、日本のためになにか役に立ちたいという思い・志があった。

榎本武揚に、それほど光があたっていなかったのは、
やはり賊軍の汚名を着せられた側に立っていたからだろうか。

ザ・プロファイラーにゲストで出ていた、鶴田真由のご先祖は、桑名藩主に付き従って、
身を新選組として函館に行き、藩主の身代わりに切腹したようだ。

私が会津・桑名そして、土方歳三、榎本武揚を応援したくなるのは、
桑名出身だからだろうか。
あるいは、敗者の美学を探ろうとしているのだろうか。

徳川の幕臣たちの行く末を案じる榎本武揚の思いは、
サムライである部下の気持ちを思った、西南戦争で敗れた、西郷隆盛と相通じる。


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 エゾハナシノブ(「よしみが行く」さんからお借りしました。)

  蝦夷地の開拓に献身した人たちのことを思います。
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