いつも喜び、 絶えず祈り、 すべてを感謝する。 そのような日々を過ごしたい。

2020/7/28

「情報とポエジーをめぐる旅」 西垣通  

NHKラジオの「文化講演会」を、聴き逃しサービスで聞きました。
演題は「情報とポエジーをめぐる旅」
講師は西垣通 東大名誉教授

1948年生まれの西垣教授は、いわゆるコンピューターが造られて間もないころ
東京大学の工学部で学び、現在の東京大学大学院の「基礎情報学」を立ち上げた人物。

文理融合という新しい言葉が聞かれるようになった。
文学部と理工学部、両方の知識を持つ人として注目されたのが
西垣通教授。

その原点は、子どものころ友達が入っていた、東京少年少女合唱隊に入ったこと。

ー音楽こそ宇宙の秩序を体現するものだーと体感したという。
それは本格的な西洋音楽を歌うことによって、幼い魂に刻まれたことであった。
例えば、バッハの平均律クラビーアの旋律。
  ヴィヴァルディの調和の霊感を私は思い出した。

日立製作所に就職して、スタンフォード大学へ留学。
情報処理、OS,ネットワーク、データベースなど進んだ欧米の基礎知識を学ぶ。

1986年明治大学の助教授になったとき、同僚であった名だたる文学部教授と親交があった。(大岡晋など)
その後、文学を学ぶためフランス語を習得、というのもすごい。

ランス大聖堂(ノートルダム寺院)のゴシック建築を見ていた時に、突然
悲しみの聖母(スターバト・マーテル)の旋律が流れたという。
それは東京少年少女合唱隊で、何度も歌った曲。
 悲しみの聖母は、もちろん十字架につけられた息子イエス・キリストの死を悼む・嘆く母マリア。その悲しみが切々と歌われる。
論理だけではなく、情がなくては真理ではない。
ということを悟ったと西垣さんは語られた。

コンピューターのプログラムと、楽譜は同じに見えるという。
論理的で、流れるような旋律。
そこに調和がないと、そこは間違っている箇所。

 音楽家は楽譜を読むと、頭の中で音楽が流れるという。

重要なことは、「論理」に「愛と哀しみ」が共にあるべき。

「現在、AIなど人工知能の開発が進んでいるが、
一人一人の人間がデータとして扱われるのはいけない。
人間の尊厳が守られなければいけない。」
ということを強調しておられた。

リベラルアーツという言葉をよく聞く。
その意味は、ウィキペディアによると

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リベラル・アーツ(英: liberal arts)とは、 ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで 、「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本」と見なされた自由七科のことである。
具体的には文法学・修辞学・論理学の3学、
および算術・幾何(幾何学、図形の学問)・天文学 ・音楽 の4科のこと。
******

自由7科=文法学、修辞学、論理学・算術、幾何、天文学・音楽
ここに、音楽が入っている意義は、大きい。

何かの番組で、見た目も人間の女性にそっくりに作ったソフィア?とかいうAIに
人類をどうしたいか?と質問したところ、
人類を滅ぼしてやる!とAIが答えた。
それでその研究は中止した。
ということを聞いた。

AIに心、魂を造ることはできるのか?
それは、道徳的であり、慈愛に満ちたものであるか?

2045年、知識という点では、AIは人間をはるかに超える。
人間が制御できない時が来ると言われている。

深刻な問題が、次々に私たちを襲ってくる。





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2020/7/23

映画「オルフェ」  映画・演劇

1950年の映画「オルフェ」
ジャン・コクトー監督
 主演 ジャン・マレー

ジャン・コクトーは、詩人として知っていました。
しかし、先の「美女と野獣」や、この「オルフェ」など、
映画も監督していたとは。
藤田嗣治とは、友人。コクトーが日本滞在の時に、藤田が案内しているとか。
ストラビンスキー、ピカソ、サティ、モジリアニなどモンパルナスの芸術家とも交流がある。
なんと、エディット。ピアフのファンで、彼女が1963.10.11に癌で亡くなったことを知り、ショックのあまり心臓発作で、その夜に亡くなったとか。

詩人、小説家、画家、脚本家、評論家、映画監督、、、多彩な芸術家だった。

この「オルフェ」は、もちろんギリシャ神話のオルフォイス(オルフェウス)を題材としている。
鏡の中に入って行く、という発想。
死神(女王)が、最後はまた現世へ、二人を戻してやる、という展開。

ただ、あの黄泉の国らしいところの、裁判官は、いかがなものか。

まあ、詩人らしい発想と企画での映画。
当時としては、斬新だったのだろう。

よく知っているクラシックの音楽が流れるのは、、、
なんだか現実に引き戻されるような感覚になった。

白黒の映画に、私はまだどうも、慣れていないようです。

いつ、その映画を見るか、、、受ける感銘も違ってくるのでしょう。


*****おまけ*****
今日7/23、偶然見たテレビドラマ
NHKの「不要不急の銀河」は、まさに今、新型コロナ感染による社会の変化、困惑を、リアルタイムで制作、放映したといえる。

脚本は、又吉直樹。芥川賞作家。
リリーフランキーと、相性が良さそう。
片岡はいり、独特の個性。
夏帆も、いい演技だった。
福ちゃんが大きくなっていた。
小さい女の子も、なかなかの演技。

緊急事態宣言によって、飲食店がいかに困惑・困窮したかを、見事に描いていた。
中島みゆきの「ファイト」の歌詞が、身に染みる。

今、いま、記録しておくべきことを、よくぞがんばって制作なさったと思う。
メイキングの様子、マスク、フェイスシールド、ビニールの仕切り、、、、
感染対策を取りながら、医師の指導を仰ぎながらの撮影風景。

ドラマを作ること、、、その意味を問う、制作当事者の方々の大きな挑戦だった。

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2020/7/21

坂東玉三郎  映画・演劇

2020年7月10日(金)歌舞伎チューンのゲストは
坂東玉三郎さん。

友達が大学生の時にファンで、よく「玉三郎さん、玉三郎さん」と聞かされました。
確かにその女形の姿は美しく、ある意味では女性よりも美しい至高の美。

日本の伝統芸能になった歌舞伎。
とても派手な衣装や所作、顔かたち。
人情味あふれる演目の数々。

その時代を映す芸能でもあった。

幼いころからその指導を受けたという尾上右近さんは、
「一刻も休まないで」と言われたそうです。

その「休まない」というのは、「感動しながら生きる。何かを受け取る」
ということだという。

何かとは、「目と耳から入ってくるもの」=いつも他から入ってくるもの。世の中の。

喜怒哀楽を感じつつ、柔らかくしょっちゅう(常に)行う。
そのために生きている。

「休まない」というのは、止まらない、慢心しない、ということだろう。
芸事に精進するとは、天狗にならないということ。

世界の人からも認められるという地位にいながら、
自分の極めた道に、おごらない。
常に、前に進もうとしている。

玉三郎さんと右近さんの会話から、真摯に究めようとしている役者魂を感じました。

「これでいい」ということは、芸事にはない。
探求心をなくしたら、そこで止まってしまう。

ふと、しゃにむに(遮二無二)絵を描き続けたゴッホの
ひまわりの絵の黄色が思い浮かんできた。


これからの玉三郎さんと右近さんに注目していきたい。

玉三郎さんが選んだ曲
ナット・キング・コールの「スターダスト」が、胸に沁みました。
 彼の歌には、歌心があり、人類愛が広がっていく。
 という思いを話しておられた。
 若いころから聴いている曲は、いいな。






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2020/7/15

「美女と野獣」2012 ドイツ  映画・演劇

セリーヌ・ディオンとピーボ・ブライソンが歌う
ディズニーの「美女と野獣」の音楽がとても素敵でした。

でもこの物語の中身は、うっすらとしか知りませんでした。
それで、フランス民話という原作を知りたいと、アマゾンプライムで探しました。

最初に見た2017年のフランス・実写版は、
かなり脚色されていたものだったと知り、原作に近いものを見たいと探しました。

そして2012年のドイツ版を見ました。
 DVDになったのは2015年らしい。
これもやや脚色してあるとはいえ、美しくてしっかりした娘エルザ(原作ベル)と
その父の肯定的な善意に満ちた姿は、好感をもちました。

ファンタジーの要素もあり、ろばの耳を持つ下僕と、豚の鼻をもつ下女も、好人物でした。
 (下僕、下女という言い方は、よくないのかもしれません)

野獣のメイクは、なかなか難しいですが、本当は優しいその人柄が、見え隠れしていて、
エルザが魅かれていく気持ちも、うまく描かれていました。

子どもたちに、「人は外見で判断してはいけない」ということを教えようとした民話かと思いました。

ところが、原作は、どうも、結婚というのは女性にとって、野獣と暮らすようなもの。。。ということを伝える。という解説などを読み、がっかり。

これはあくまでも、おとぎ話で、
悪いこと=民衆を搾取する王(領主・政治家)は、いけない。
人を外見で判断してはいけない。
呪いは、愛の力で解ける。

ということを教えてほしい。

検索していたら、ジャン・コクトーが映画化したものがあると知りました。
後ほど、そちらも見てみます。

野獣と美女の舞踏の場面では、
私の中では、セリーヌ・ディオンの歌声が聞こえてくるような気がしていました。

いい映画には、いい音楽。
 期待します。

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2020/7/9

映画「クォ・ヴァディス」  映画・演劇

1951年のハリウッド映画「クォ・ヴァディス」
 クォ・ヴァディス・ドミノ(主よ、あなたは どこへ行かれるのですか?)

ずっと前(中学か高校の時)に映画を見ましたし、本も読みました。
今回、教会の友達からBSで放映されると聞き、録画しました。
ポーランドの作家 ヘンリク・シェンキェヴィチ

こんなにもキリスト教の映画だったとは。。。
最初にパウロが出てきた。
ペテロはまさに聖書の福音の要約を語る。

暴君ネロの時代。
「ベン・ハー」よりも少しあと。でも軍人の二頭立ての馬車などは、ほぼ同じ。

円形劇場でライオンがキリスト教徒を襲う場面は、実際にあった史実と思うと痛々しい。
主にすべてをゆだねて、讃美歌を歌いながら平静でいられるか。

気が弱く、自分の信念のなさそうなネロは、どこかの大統領に似ているような気がした。周りの者に操られているようなところもある。
独裁者は、どのように作られるのだろうか。
その器ではない者が、指導者になると、自分の弱さ、小ささを隠そうとして、いばりちらして暴君になるのだろうか。
優秀な指導者は、少ない。
その時代背景にも、影響されるのだろうか。

ちょうどカルチャーラジオ歴史再発見では、
「古代ローマ帝国成立期の皇帝たち」が始まったところ。

死と復活。
もしキリストの復活がなかったら、キリスト教は成立してなかっただろう。
それが「真実」でなければ、だれが、命をかけるだろうか。

「殉教者の血は、種である」という有名な言葉がありますが、
初期のキリスト教徒の様子を、映画で見ることが出来るのは、ありがたいことです。

信仰とは、まだ見ていないことを信じること。

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
            (ヘブル書 11;1)

自分で聖書を読むことのできる時代に生きていて、
本当に良かった。
自分で読んで、それが本当かどうか、自分で判断しなくてはなりません。

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