いつも喜び、 絶えず祈り、 すべてを感謝する。 そのような日々を過ごしたい。

2016/5/27

『使命と魂のリミット』  

『使命と魂のリミット』またもや東野圭吾。
読み終えました。
今回は、医療ミスのお話。

動脈瘤の手術で亡くなった父親は、医療ミスだったのではないかと疑い続ける娘。

自動車の欠陥部品のこと。婚約者をそのせいで亡くした若い男の復讐。

最後はやや綺麗すぎる終わり方ではありましたが、人間の使命とはなにかを
考えさせる作品でした。

この言葉を胸に刻んでおきたいと思いました。
父親が手術の前日、亡くなる前の日に娘に言った言葉。

「ぼんやり生きてちゃだめだぞ。
一所懸命勉強して、他人のことを思いやって生きていれば、
自ずといろいろなことがわかってくる。
人間というのは、その人にしか果たせない使命というものを持っているものなんだ。
誰もがそういうものを持って生まれてきてるんだ。」

自分の生きている意味、使命がわかった人はしあわせだと思う。
なんのために生きているのか。
どこから来て、どこへ行くのか。
これは永遠の課題。

その答えがわかった人=自分の使命に気づいた人は
しあわせだとつくづく思う。


中学のときから、福祉とか奉仕に興味があった。
どうしてそうなのかは分からなかった。
けれど奉仕は、神様が私に与えてくださった使命だったと
最近理解できた。

奉仕=サービス
人のために役に立つことをしたい。

これからもその道を求め続けていきたい。


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『使命と魂のリミット』 文庫本 表紙

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追記
2011年にNHKの土曜ドラマスペシャルでドラマ化されていることが
分かりました。

早速YouTabeで、前編・後編をみました。

原作で重要な言葉は、ほとんどセリフとして語られていた。
多少の変更や、簡略化は、必要だと思いました。
まあ許容範囲。
うまくまとめてありました。
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2016/5/26

交流会  朗読

視覚障害協会のみなさまと、朗読(音訳)ボランティアの私たちとの、
1年に1回の交流会が、今日5/26にありました。
午後から雨の予報だったので、
なんとか1:00から4:00ころまでは、雨が降らないようにと祈っていました。
バーチャルのてるてる坊主もイメージして。

そのおかげか、曇っていましたが、小雨が降ってきたのは5;30ころ。
まさに守られました。

毎年、朗読を3作品くらいと、一緒に歌を歌います。
こんかいは、「ドレミファどん」という昔の番組のように、曲のイントロを出して
曲名を当てていただくものでした。
10曲用意しましたが、みなさんよく正解なさいました。
ハーモニカを持参してくださった方があり、
みんなで当たった曲の1番だけを歌うとき、一緒にハーモニカを吹いてくださいました。

今回は、拡声器を新調したので、機械操作になれなくて、行事部の人たちは大変な苦労をなさいました。曲目を選ぶのも、大変でした。
1960年代から70年代の歌が多いのですが、ちょっと古いとか最近言われるようにもなりました。

今回は、中学生たちが「トライやるウィーク」という社会体験の実習で来てくれました。
中学2年生の男子2名と女子1名。
日頃目の不自由な方々と会う機会はなく、最初は少し戸惑ったようですが、
「ドレミファどん」で正解した方に、ささやかな賞品を配るお手伝いをしてくれました。
なんといっても、十代の彼らがいてくれるだけで、明るい雰囲気がありました。

世の中の変化は激しく、いまはもうテープ録音ではなく、CDに録音するようになりました。
デジタル化です。
月刊の社会福祉協議会からの情報誌の録音と、社協だよりの録音のほかに、
これからは、私たちの会も、デイジー図書という音訳(朗読)したCDをみなさまにお送りしたいと願っています。

これからも個人的にも、いいお交わりをさせていただけたらなと思っています。

会員21名で力を合わせて、少しずつ前進していきたいです。
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2016/5/18

『虹を操る少年』  

1994年に出版された『虹を操る少年』を読みました。
毎度お馴染みの東野圭吾です。

天才少年、白河光璃(ひかる・みつる)
どうも宗教の匂いがすると初めから感じていましたが、
やはりオーラ、後光、気功、、、が出てきました。

虹にはとても興味があるので、どんなお話だろうと期待しました。
予想は外れなくて、ふむふむ、、という展開。
新しい光が出てくると、権力者はそれを排除しようとする。
社会の仕組み、機構は、権力や財産を持つ者が有利になるようにと動く。
いわゆる闇の力。ひしひしとそれは現実に感じる。
光のメッセージを発信する光璃と、それを受信する少年少女たち。
敏感な感受性を持ち続けたいです。

マスク・バンダリズムという暴走族。
バンダリズムとは、芸術、文化を破壊する行為。
既存のものを破壊するという意味もあるのだろうか。
彼らのヘッドライトの色は微妙に違っていて、
そのメッセージは「目覚めよ」というものだった。
「起きよ、光をはなて」という言葉も聞いたことがあります。

シンセサイザーの音楽を連想しました。
それにミラーボールのような光。いやそれよりも神秘的。
奇しくも5月5日に富田勲さんが亡くなりました。
84歳。秋にはまた新しい挑戦の予定があったらしい。
ドビュッシーの「月の光」をシンセサイザーで聴いたときの衝撃を思い出す。

単行本のP272「世の中を変なふうにねじ曲げようとする人間」がいる。
まさにその通り。
それに対抗しようという新しい光。

私には残念ながら見えませんが、友人の一人は、その人間が発する光が見えます。
私が右腕を打撲していたとき、
「どうりで、赤黄色い光が見えてたから、どうしたのかと思っていた」
と言いました。
ほかの人に見えないものが見える。
それは子供のころからだったそうです。
でも両親からは、それを人には言わないようにと言われていたそうです。

不思議な力を持つ人が現れると、それを利用してお金儲けをしようとする人間が出てくる。

作者は、大昔から、聖人の絵には後光が描かれていることを指摘していた。
天使の光の輪。

たぶん、その光を感知する人たちが、その聖人の元に自然に集まってくるのだろう。
そのことに私は大いに共感しました。

実際に不思議な光に包まれている人がいて、
それを見る人がいたことを、最近読んだばかりでしたので、
この虹を操る少年の存在、、、本当だったらいいのにと思いました。

これは映画とかドラマになっているのでしょうか。
面白い映像が創れそうです。

どうも、ドラマになったようですね。


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『虹を操る少年』文庫本の表紙

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「虹を操る少年」イメージ画像
まあ、こんな感じかもしれません。
なんとなく、藤城清治さんの影絵を連想します。
藤城清治さんも、虹をあやつる少年で、いまおじいさん。ですね。
光の映像、、輝いています。
大阪であった展覧会に行けなかったのは、本当に残念でした。
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2016/5/13

ヌーン・コンサート  音楽

春の聖書セミナーの第1回は都合で出席できず、
第2回出席できました。
「人間・社会・世界『わたし』キリスト教の視点から」
第2回は、社会はどうあるべきか
でした。
途中で、受講生4人〜6人で話し合う時間もあり、
社会性、歴史観も入って、なかなか面白いセミナーでした。

そのあと、ヌーン・コンサートがあったので、
昼食前に、友人と3人で聴きに行きました。

今回は関西学院グリークラブのコンサートでした。
40人編成で、とても迫力がありました。
30分のコンサートですが、結構たくさんの人たちが聴きにきていて
礼拝堂に7割は入っていました。

6月26日(日)には西宮芸術文化センターで、
第65回 東西四大学合唱演奏会があるようです。
慶応義塾ワグネル・ソサエティ男性合唱団
同志社グリークラブ
早稲田大学グリークラブ
関西学院グリークラブ

ラジオでもよく聴くグリークラブが毎年演奏会をしているのでした。

やっぱり聖書セミナーは、いろんな刺激をもらうことができて
楽しいです。

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2016/5/5

『虚ろな十字架』  

題名にひかれて図書館から借りました。
『虚ろな十字架』
読んでいくうちに、これは死刑についての問題提起だと分かりました。

幼い女の子を殺された若い両親。
中学3年で妊娠した女子生徒とその相手の高校生。
彼らは生まれたばかりの赤ん坊を殺して、青木ケ原の樹海に埋めた。

その二つの事件が、後半から絡んでくる。

死刑廃止論がある。
それに反対する意見もある。

私はどちらがいいのか、決められない。

被害者は犯人が極刑に処せられるべきだと思う。

しかし死刑制度は、殺人ではないか、という考え方もある。

結論は、作者が最後に言っているように、
「人間なんぞに完璧な審判は不可能」ということ。

最後の審判というミケランジェロの絵がある。
聖書を題材にした絵画。
バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂にあるこの絵を、
直に見たことはないけれど、細かく書かれているそのフレスコ画を画集で見たことはある。
聖書セミナーで取り上げられたこともあったような気がする。

仏教でも、地獄絵図と極楽絵図がある。曼荼羅というのだろうか。

悪いことをしたら、閻魔様に舌を抜かれるとか、
血の池に投げ込まれるとか、
針の山を歩かせられるとか、、、、
そういうたとえで、嘘をついてはいけない、人のものを盗んではいけない、
など、人として当然守るべき道理を子どものころ教えられた。

来世はないと思っている人は、
この世での行いを裁かれることなどないと思っているのだろうか。

自分なりに罪の償いをしようとする男性。
自責の念から自分の価値を認められず、万引きをしてしまう女性。

人はみな、ほかの人には分からない十字架を負っているのかもしれない。

罪の自覚がないと、十字架の贖いといっても理解できない。

いろいろ考えさせられました。


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『虚ろな十字架』 表紙

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最後の審判  ミケランジェロ

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昨日から気になっていた聖書の言葉があります。

ヨハネによる福音書8章10節
「わたしもあなたを罰しない。
お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」
というイエス・キリストの言葉。
これは姦淫の女に対するお言葉。

その前の8章7節には
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」
とあります。
殺人は犯さなくても、罪のない人間はいない。
その場にいた人たちは、老人からはじめてみんな去っていったのでした。

人を非難したり、裁いたりすることは、
本当はだれもできない。

最後の神の審判を思います。
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