いつも喜び、 絶えず祈り、 すべてを感謝する。 そのような日々を過ごしたい。

2012/5/29

敬愛する吉田秀和さん  音楽

昨日の朝刊で、吉田秀和さんが5月22日に鎌倉の自宅で亡くなったことを報じていた。98歳。
私がそのことを知ったのは、夜になってからでした。
驚いて友人にメールをしました。
突然の訃報、ついに・・・・という気持ちでした。

「名曲の楽しみ、吉田秀和」という言葉を、初めてFMで聞いたのは、いつごろだったか思いだせない。
家にいるときは、ラジオから音楽が流れていると安らぐので、いつもNHKFMをつけている。
選曲するのは吉田秀和さんなので、その時に彼が興味を持っている曲が流れることが多かった。
あるときは、ショスタコービッチが何週も続き、現代音楽はどうもしっくりこないと思っていた私は、「またか」と思ったりした。
しかし、最近になってやっと、ショスタコービッチが過ごしたソ連時代の闇の歴史を少し詳しく知って、あの不協和音のような馴染めない音の底にある意味が分かってきた。
さんざん、吉田秀和さんに聴かされた?お蔭かもしれない。

吉田秀和さんの年齢を知るまでは、ラジオから聞こえてくる声は、とても聞き取りにくく、どうしてこの人が話すのだろう・・・・と思っていた。
しかしその語られることをじっくり聴いて、このように深い知識と鋭い感性で語れるのは、「この人しかいないのだ」ということが分かった。

朝日新聞に連載される「音楽展望」も興味深く読ませていただいていた。

雑誌「考える人」2007年夏号に特集があり、堀江敏幸という若い作家との対談も、とても良かった。
『永遠の故郷』という4冊の本は、遺言として読んだ。
90歳を過ぎてなお、本を書き、ラジオの定期番組をこなす、
その力の源はどこにあるのだろう・・・と時々考えた。

何ものにも捉われない、しなやかで自由な生き方。

権威も恐れないその発言を支えているのは、大いなる確信。

不死鳥のように生き続ける超人は、金環日食の光のように、隠れても輝く。


多くの人がその死を悼み、語っている。
今朝の天声人語も、吉田秀和さんのこと。
「想像力の引き出し役になる批評」をめざしておられた、という。

9年前に亡くなった奥さんのバルバラさんは、日本文学の研究家で、最後の仕事は、永井荷風をドイツ語に翻訳しておられたとか。
ご夫妻は、互いを認めあい、高めあっておられたに違いない。

残された著作を読み、もっともっと「美しく生きる」ことを教えていただこう。
大好きなお祖父さんが亡くなったような、寂しい風が心の中を吹いているような、
そんな1日を過ごしました。

あなたは、いかがでしたか。

謹んで、安らかに眠られますことをお祈りさせていただきます。


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熊谷守一 「朝のはぢまり」


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2012.5.21 大阪 金環日食
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2012/5/23

熊谷守一展  美術館・博物館

熊谷守一展
  ー小さな画面に無限の世界ー

伊丹市の美術館で4月14日から5月27日まで開催されていることを知ったのは、偶然新聞でほかの記事を捜していたときでした。

以前友人から聞いていて、名前は知っていたけれど、その作品の本物を見たことはありませんでした。このたびは生誕130年、没後30年ということで、油彩画144点、日本が26点、書10点という充実したものでした。

平日にもかかわらず、多くの人が遠くから来ていました。

作品は年代順に4つの部屋に分かれていて、その作風の変化を知ることができました。
明治13年(1880年)生まれ、昭和52年(1877年)97歳没。
70年描き続けてきた画壇の仙人といわれる守一が、輪郭を赤く残すモリカズ様式を作りだした最初の絵は昭和11年の山形の風景画だけれど、
私は昭和23年の「熱海」という絵からはっきりその画風・個性が確立されたように思う。

昭和29年に描いた「土饅頭」は、墓碑で、樺太のアイヌの人のお墓。クジラの骨と花だけがさしてあるもの。私はその簡潔な線と単純な色にくぎ付けになりました。
しばらくその前から動けませんでした。
この絵は、スケッチしてから54年後に描かれた絵。
その隣にある「榛名湖」も同じ「青・蒼・藍」。

どういうわけか、私は今年になって「青」に魅かれて、沖縄の琉球ガラスを買ったり、ラピスラズリという小さい天然石を身に着けたり、青い洋服を着たり。

板に描かれた守一さんの絵の「青」は、悲しい蒼です。
濃淡はつけず、イラストかと思うような簡潔な線。

日本画の「椿」(1972年)、「つゆ草」(1955年)も欲しくなるような絵。
「蝉・とんぼ」は少し大きい衝立(ついたて)その枠のローズピンク美しさ。
家に置いておきたくなる。

守一さんは世俗に無関心で、2回の文化勲章も辞退したという。
「心自閑」という書、天衣無縫のその書体に、その生き方が現れているような気がします。

最初は写実画、だんだん変化して抽象的になっていく様子は、ピカソと同じだと思って見ていたら、略年表に「ピカソはすごく分かる」というような守一さんの言葉もあり、なるほどと納得。

「朝のはぢまり」と「夕映え」は、まさに象徴的。
絵葉書「朝のはぢまり」は売り切れていました。
「猫」の一筆箋と日本画の「つゆ草」の絵葉書を買う。

パンフレットに載っている「猫」や「白猫」「うさぎ」もかわいい。
「月夜」の膝を抱える女。これは樺太のアイヌの女の人がよく海を見ながらしている姿勢。
これも簡潔な究極の線。

軽い脳梗塞をしてから、スケッ旅行に出なくなり、晩年の30年は、豊島区の家の15坪の庭だけが、世界。
   なんだか子規の晩年を思わせる。

「命を感じるまで見続ける」
「絵というものの私の考えは、ものの見方です。どう思えるかという事です。」
という言葉に表されているように、そこには命がある。
小さい絵が心に、魂に強く語りかけてくる。
「風」という一本の木を描いた絵には、風が確かに吹いていた。

昭和7年(1932年)から池袋モンパルナスと呼ばれる豊島区椎名町〜千早近辺に住んでいた。
極度の芸術気質で、貧しかったという。
5人の子供のうち、次男を4歳のとき、長女を21歳で亡くした。

描くことに没頭した生涯は、なにものにも捉われない生き方のように思う。

会場のあちこちの壁に、守一さんの言葉が薄い文字で書いてある。
その無欲な生き方に魅かれ、著書「へたも絵のうち」と「蒼蠅」をアマゾンへ。

まことに、うちの猫と同じ様子をした猫の絵には、
癒しと親しみを感じます。
やっぱり猫のキーホルダー買ってくればよかった。




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今回の展覧会の会場はいってすぐに飾ってあった大きな写真。
どことなく晩年のモネと似ていませんか?

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2012/5/21

金環日食  

朝の7時台といういい時間、金環日食ご覧になりましたか?
私は日食観察用の眼鏡を買っていなかったので、外へ出て見ることはしないで、
家で早速テレビをつけて、あちこちチャンネルを変えながら、世紀の瞬間を見ました。

この次は35年後?
、北海道でしか見れないとか。
星や月を見るのは大好きです。

昨夜は宇宙の渚のオーロラ編をやっていました。
オーロラや虹という自然現象は、いつも見ることはできないから、
神秘的なのでしょうね。

「夜の虹」という写真集を持っていますが、
日本では見れないのかもしれません。

太陽が暗くなるという不思議。

6月6日には、金星が太陽を通過して、ほくろのように見えて移動するとか。

天体観測のグループに入りたい気分です。

この日を忘れないように、
ひとこと書いておきました。



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アカシヤの咲くころ

northland-art-studioさんからお借りしました。
いつもいいお写真をお貸しくださって感謝しています。
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2012/5/17

『詩の本』  

谷川俊太郎さんの2009年9月に出版された『詩の本』は、
2000年前後からあちこちに書いてきた詩をまとめたもの。
今日、図書館から借りて、外の閲覧室で一気に読みました。

私は若いころから、谷川俊太郎の詩に親しんできました。
現代詩人のなかで、一番心に添ってくれる詩人。
2回お会いしたこともあります。
思っていたより小柄でやせぎすな詩人。
青年の清く碧い心を持ち続けている詩人。


詩人茨木のり子さんへの追悼詩「いなくならない」
幼馴染だったという女優岸田今日子さんへの「探す」
市川崑さんを送る「光と影のあわいに」
作曲家林光さんの喜寿のお祝いに「林の光」

40代の女性に・・・といわれて書いた詩「できたら」の後半を少し引用させていただきます。

*******

時を恐れないでほしい
できたら
からだの枯れるときは
魂の実るとき
時計では刻めない時間を生きて
目に見えぬものを信じて
情報の渦巻く海から
ひとしずくの知恵をすくい取り
猫のようにくつろいで

眠ってほしい 夢をはらむ夜を
目覚めてほしい 何度でも初めての朝に

*********

心にくいほどの、この洗練された言葉の選択。
私の思いを、私が表現したい言葉で書いてくれる。

みんながよく知っている詩や人物を念頭において書かれた詩は、
短歌の本歌取りのようで、面白い。

年齢がそうさせるものか、この詩集には、死を意識したものが多い。
本物の詩人の魂をもった詩人は、それほど多くはいない。
永遠の青年詩人、谷川俊太郎さんの健康を祈ります。


谷川俊太郎さんの翻訳は、シュルツのピーナッツシリーズ、スヌーピーも素敵ですが、
ほかに子供の本もたくさん訳している。
訳者が谷川俊太郎か村上春樹だと、中身もよく確かめずに買ってしまうことがある。

あまりにもたくさんの本を出しておられるので、すべてを読むことはできません。
でも、こうして「本」のほうから、飛び込んできてくれる。
ありがたいことです。


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砂川ビッキさんの作品

northland-art-studioさんからお借りしました。
いつもありがとうございます。
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2012/5/10

小野田寛郎さん  ひと

昨日の朝日新聞の夕刊-ニッポン人・脈・記-に小野田寛郎さんの記事がありました。
お読みになりましたか。
丁度沖縄返還が行われた1972年ころ、フィリピンのルバング島で戦いを続けていた日本兵士。かの陸軍中野学校に学び、情報将校となる。

グアム島には横井庄一さんがいて、戦後28年たっての帰還を果たした。

日本政府からの大捜索隊が小野田さんのいるジャングルへ向かって「戦争は終わったから出てくるように」と呼びかけたが、彼は「命令で派遣された人間を戻すには命令をもってすればいい。なぜそうしないのか。」と疑問をもち、これは敵の策謀だと思った。
そこへ、鈴木紀夫という世界を放浪していた24歳の青年が、小野田さんを捜しにやってきた。
小野田さんを見つけ、語り明かす。
帰国して、小野田さんの求める、任務解除命令を持って、再び鈴木紀夫さんは迎えにきた。
戦争が終わり、29年目に小野田さんの戦いは終わった。

当時マスコミがお騒ぎしていたのを、覚えている。

その後、小野田さんは日本の社会に違和感を覚え、
帰国後半年で、次兄のいるブラジルへ行き、牧場経営をする。

横井庄一さんとは違う生き方を選らばれたことが、
私はとても心に残ってた。

新聞には、2枚の写真が掲載されていた。
1枚は鈴木紀夫さんと会ったときの、若く精悍なもの。
もう1枚は、90歳になられた現在のにこやかな写真。


このところ、美しく歳を重ねるには、どうしたらいいかと考えたり、友人と話したりしていた。
90歳の小野田さんの笑顔を見て、このように「美しいしわ」を刻むには、どのような姿勢で生きてこられたのだろうと、思わずにはいられませんでした。

ブラジルで10年を過ごし、牧場経営も成功し、祖国のために健全な青年を育成したいと、サバイバル塾「小野田自然塾」を作り、逞しい日本人育成に励んでおられるとか。
講演もよくなさっているらしい。

信念を曲げずに生きるとき、人から誤解を受けたりもする。
それでも、自分が正しいと信じる生き方を貫ける力は、
どこから湧いてくるのだろう。


私がこの記事に心を留めたのは、小野田さんが子供のころ、母親から食事の作法を厳しく言われ、そのことによって、

「気分任せの振る舞いを徹底して抑え込まれた。そのことが『自分を律する自分を生んだ』と小和田はいう。」

というこの母親のしつけに、思い至ったからです。

母の日が近いいま、
自分が母親として、息子たちに何を与えてきたか。
その生涯を左右するほどの「教え」を伝えていないのではないか。。

ふとそう思ったからです。

私が自分の母親に感謝していることは、
幼い時、小学1年生の時、近所のお姉さんが教会へ誘ってくださったとき、
「いいお話を聞くのは、いいことだから」と日曜学校へ私を行かせてくれたことです。

母は洗礼を受けることには、強く反対したけれど、
私の生きる方向を定めてくれたような気がする。
そして私が洗礼を受けた歳に、今日長男がなりました。
彼の生き方は、まだ定まっていません。

けれど、ひたすらな母の祈りを、神様は聴いていてくださることを
信じて感謝しています。








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これは今年の春の薔薇です。
今日遊びに来てくださったNさんと一緒にバラ園へ行きました。
残念ながら、まだ2分咲き。
華麗な薔薇の饗宴は、あと1〜2週間あとのようです。
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