(
続きです)
ブーはどっぷり日本語環境に浸かり、ウーは「英語ができない」コンプレックスでチックの症状を抱えていたその頃、
娘2号フーにはこれと言って問題らしい問題は起きていませんでした。
でも…この頃、
結核疑惑からはなんとか脱出したものの、フーはどんどん生彩を欠いてきていました。
学校から帰ってくると、黙って何かを食べ、あとはもくもくと、その頃ようやく届いた引っ越し荷物の中の日本語の本を読む。それだけ…。本を読んでいるというよりは別の世界に没頭したいだけのように見えました。
何かを話しかけても
「さあ」とか
「べつに」とか
「・・・」(肩をすくめるだけ)とか…。
←どこが問題が起きていなかったんだよ、と今更愕然とするワタシ。
一足早くティーンネイジャーの反抗期を迎えたかのようになってしまったフーを見て、私は
「もうこの子との一番楽しい時代は終わってしまったのだわ(T_T)」と何とも言えない悲しい気持ちでした。(
現在は元々の彼女以上に
本領発揮!という感じでぱつんぱつんに輝いているフーですのでどうぞ
ご安心ください)
淡々と黙々と日々を過ごすだけだったフー。私が彼女の教室へ入ったのはパーティで料理を持っていた時だけです。
この頃のことをフーに訊いても
「覚えてない」と言います。毎日日本語の本に頭を突っ込んでいたことも、笑わなかったことも、もっと具体的に言えばクラスメートの顔も名前も、教室の番号も…とにかくこの学年の記憶はほとんど抜け落ちてしまっているようです。私はこの頃強く日記を書くことを奨めたのですが、子どもたちは3人ともそれには従いませんでした。そのことを今、フーに言わせると
「ああ、書いておけば良かったよねぇ。それは当時も重々わかっていたんだけどねー。それが書けなかったのよねー。たぶん、また同じ状況がやってきてもやっぱり書けないだろうと思うよ…(´ー`)┌フッ」
とのことで、無理難題を押しつけてくる母をうまくかわしていたんだなあと感心してしまいます。
一方家の中は家具を少しずつ揃えたり、引っ越し荷物が届いたりして生活自体は落ち着いてきました。私の英語クラスも一つ進級し中級クラスに入れてもらいました。その頃には、相変わらず話せないながらも読み書きが少しずつ進歩していました。この段階では英語の基礎を
一応何年も学んで来たはずの
私の進歩の方が子どもたちよりもずっと早かったのです。
でも実際の生活で必要なのは、
まず会話力なので実生活ではまだまだ全然役に立たなかった私なのでした。冬の一時期、私は
外出恐怖症になりました。ガソリンスタンドで一人でガソリンを入れている時や、ドライブスルーのATMマシンを使っている時、何か操作を間違えたり手間取ったりしているとどこからともなく
(ってスピーカーに決まってるんですが)「May I help you?」とか「Is there anything trouble with you?」とか私に向けて質問の声が飛んでくるのが怖くて怖くて。パニックになると何を訊かれているのかもわからなかったです。学校と家との往復以外は食料品を買うのがやっと。それさえも、できることなら避けたい気持ちいっぱいでした。
でも、私もどうやってこの時期を切り抜けたのか全く覚えていないんですよねー…って全然子どもたちのこと言えないじゃん(^◇^;)。
ただ、私の方は少しずつ、ESLのクラスで
友人が出来始めたのがこの頃だったでしょうか。英語がほとんど話せない同士(同じクラス=レベルですから)では会話が成立しないので、最初は日本人の友達ができました。そして少しずつ話せるようになると韓国人の友人が。当時日本ははまだ韓国ブームの走りでさえなくて、彼らが「今、韓国では日本が大人気なのよー」と話していたことが印象的でした。そして南米の友人とも仲良くなり、時にはお互いの家を行き来するようにもなってきました。
でも相変わらず友人と呼べるアメリカ人はできません。このあたりの事情も日本の現状からはちょっと想像しにくいかと思います。日本では未だに外国人は(ずいぶん増えているとは言え)ちょっと
特別な存在ですよね。
国際交流のイベントでも実は外国人の頭数を揃えるのが大仕事だったり…(この3年で変わったかな?)外国人と友達になりたがっている人がとても多いのが日本だと思います。(といっても金髪碧眼の西洋人ばかりがチヤホヤされる現状はありますが)アメリカでは保守的な中西部の田舎でさえ、外国人は全く珍しい存在などではないのです。誰も(本当に誰も)チヤホヤなどしてくれないし、英語に手加減してくれる人さえまれです。
そして
言葉ができなければ相手にしてくれない、ただのお荷物。これが現実。友達が欲しければ言葉ができるようになるしかありません。日本にいる外国人のように周りが一生懸命話しかけようとしてくれる、なんてことはあり得ないのです。事実、言葉が不自由な私を透明人間のように扱う人もたくさんいました。
そういうことも、日本からの友人たちからは誤解されてるなーと思いました。
まあ、つまり
アメリカに住めば簡単にアメリカ人の友達ができるというわけではない、ということです。だから多くの日本人は日本人同士で固まってしまいがちです。ずっと一人で孤独に耐えるのは案外辛いですからね。
そうなるともう会話を上達させようにもますますチャンスがなくなる悪循環です。ESLに通うクラスメートの多くは同じ悩みを抱えているようでした。
さて、春を迎える頃。夏の引っ越しシーズンに向けて家探しに取りかかりました。アメリカでは3ヶ月にも及ぶ長い夏休みの間が引っ越しシーズン。物件が一番動くのもこの時期です。家探しをするならここが正念場だという情報は得ていました。まず希望の学区を決めなくてはなりません。自分の通うESLの先生をつかまえて、大体の学区の評判や特徴などを教えてもらいました。
ある程度まで学区を絞った私たちは、早速オットの会社の社長の娘というリアルター(不動産屋)を紹介してもらい、彼女が物件をリストアップしては休日ごとに案内してくれるという日々が始まりました。実際に家を見るのは週末。残りの日々は資料やらネットやらと首っ引きです。5軒めくらいまでは新鮮な気持ちで見たのですがだんだんその作業にもうんざりしてきました。
一方、この頃のフーが興味を持ったものといえば本の他には
馬。
そして5月のある週末、バックヤードが
馬の牧場に面しているw(*゜o゜*)w 一軒の家に出会ったのです。
馬が決め手でその家が最有力候補となりました。新しい生活に向けて動き始めたそのとき。
大事件発生。
(
つづきます)
私のクラスメートたち(当時)。懐かしいなぁ。
チョットしんどくなってきたのでこちらの連載のペースが落ちるかもしれません。楽しみにしてくださってる方(いるのかな)ゴメンナサイ!引き続き犬関係続きます。(ちょっと試してみた結果、やっぱり分けるのはムリそうです〜。フォスター終わったらネタがなくなりそうだし。ホラ、うちのコリーたちってあまり変化がないものだから。というわけで>とことこさん、ごめんねー。)
ランキング今度はどのカテゴリーでしょう?見てみる?→どらどら♪

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