2004/5/6

黒衣と白衣 その3  


 時計を見て、リーダーが決断した。

「…家族を呼ぶからね。まわりきれいにしてね。心臓マッサージは、
全力はいらないからね。」

 リーダーの医師は冷静なまま、優しい声を皆にかけ、廊下で待つ
家族に説明をしにいった。ERに静けさが戻る。
 数年後にそんな説明をしなくてはいけないなどと思うと、麻衣は
失語症になるかのような緊張感を覚えた。自分の目の前で、今人が
亡くなった---何度経験しても、非日常的で現実とは思い難かった。

「あな…た」

 真っ赤な目を見開いて、この突然の夫の変わり様に入ってきた女性は
声が出なかった。

「お父さん、ねぇ。おとうさんしっかり、ねぇ!」

 女性はストレッチャーに手をかけて泣き崩れ、隣で若い娘さんと
思われる人が泣きながら彼女を支えた。
 リーダーはささやくように家族に状況を説明し、目で合図して、
麻衣と真砂君は静かに頭を離れ、男性のまわりでうつむく他の
医師達と混ざった。

「13時20分、御臨終です。」

 皆、深く頭を垂れた。わっと遺された家族は泣いた。ふと見ると、
涙もろいERの看護婦がその様子にもらい泣きしていた。麻衣は---、
泣けなかった。けれどもう一人泣いている気配がして、亡くなった患者の
足元の方向を見た。
 麻衣は---そこに見えたものに頭が透明になりそうだった。

 泣いていたのは、うっすらと見える黒衣の男だった。歳の頃は30くらい
だろうか。頭から足元までを覆う黒い服を着て、漆黒の髪、翳りのある黒い瞳、
淡い紅色の唇が顔を隠す薄いベールの下に見えた。黒い別珍の小さな袋を
左手に握り締め、ぽろぽろ涙をこぼして泣いていた。
 麻衣は口を半開きで男を見つめ、そっと周りを見たが誰も黒衣の男には
気づかぬ様子だった。どれくらい今見えているものを本気にしたらいいのか
わからないまま、

(かわいそうに、まだやりたいことをいっぱい残しながら、)

 と言う声を聞いていた。麻衣は、驚いた。と同時にがっくりした。
まずい。声まで聞こえる。と幻覚をのろった。やっぱり不似合いな場所で
適応力のないまま働くからこういうのが見えてしまうんだ...。麻衣はもう
見えぬよう、泣く男から視線をそらした。

2004/5/6

黒衣と白衣 その4  


 ERの天井の方、患者の足元側から、温かな、優しい視線を感じた。
どこか懐かしいような、泣いてもいいよ、と言っているような。
今度は何も見えなかったが、その視線は確かに家族に注がれていた。
おそらく、今亡くなったばかりの男性の、魂なのだろう。この感覚は、
前にも医学生の時に救急実習で同じ状況の中、感じたことがあった。
 それこそ、やりたいことをいっぱい残したこの方自身の視線なのだろう。

 そういえば黒衣の男は---と見るとその天井を見あげて微笑んでいた。
あなたの気持ちの済むまで、待ちますよという表情で。麻衣は背筋の
凍る思いで理解した。
 この男は---死神だ。

 そんなものを見てしまったとは誰にも言えず、麻衣は胸の奥にしまった。
そしてしばらく忘れていた。

 しかし、その後もドクターブルーが流れて例えば6階病棟に駈け付けても、
3階病棟に駈け付けても、黒衣の男はそこにいた。心臓マッサージを続ける人を
熱く見つめて応援していたり、おろおろ、はらはらした様子でまるで救命を
祈っているようだった。蘇生して助からないことも、確かに多い。けれども
院内心肺停止の患者が蘇生するのは、止まってすぐ救命活動が始まるので、
院外から運ばれて来る人よりも可能性があった。
 患者の心拍が再開すると、医師たちも、それから黒衣の男もわっと喜んだ。
いつのまにか、麻衣は黒衣の男と目を合わせてともに笑ってうなずき合ったり、
患者の死を無言で嘆き合う仲になった。

 内科研修中のある時、麻衣の担当する肝臓癌の末期で入院している患者の
意識が段々と落ちていった。患者の自宅に、麻衣の上司が連絡する。深夜の
静かな病院で、家族と過ごす最期の時間を麻衣と上司はナース・ステーション
で黙って心電図モニターとともに見守っていた。
 波形が変わり、ゆっくりになっていく。アラームがなるのを上司は止め、
麻衣に行くぞと言った。

 そっと病室の扉を開け、眠っているかのような患者に向かって、二人は
深く礼をした。家族も、涙ながらに礼を返した。
 看護婦達の、死後のケアが済み家族が呼ばれるまでの短い時間、
麻衣はどうしてももう一度患者に挨拶がしたくて、触れにいきたくてそっと
部屋に入った。入院時から患者は言葉を交わす元気はなかったけれど、
訪れるといつも微笑んでくれる、すてきな女性だった。

2004/5/6

黒衣と白衣 その5  

 もう確かにこの方は亡くなっている。けれど本当についさっきまで
呼吸をしていたという気配が部屋に漂っていた。亡くなった人の部屋は
いつもそうだ。患者の顔のあたりに、ふわふわとやわらかな意識を感じる。
まだ、眠る様に魂は宿っているのだろう。ね、と心の中で話しかけたら、
うっすらと黒衣の男がベッドの向かいに現れ、涙目でうなずいた。
黒い袋の口を握る左手に、今日は十字架のついたロザリオを巻いている。

(この方、クリスチャンなんです。そして薔薇が、好きな方で---
自宅のローズガーデンをずっと、気にかけていらした)

と、求めずとも独り言のように語り、男は静かに、右手からはらはらと
淡い紅の薔薇の花びらを降らせ、患者のまわりに落とした。患者の顔は
変わらず安らかだったがその上の気配が少し、明るくなる。男はそれを
見て少し微笑み、両手を組んで祈った。そこではっと思い出したように
麻衣を見た。じっと見つめてしばらく考えた後、

(僕の仕事を見て行きますか、)

と聞いた。麻衣は、頷いた。
 男は枕元にひざまずき、静かに頭を垂れた。右手が、左の黒い袋の
口ひもをすっと解く。男の口から零れたのは、難解な呪文ではなかった。
静かで素朴な、労いの言葉だった。

(長い間、おつかれさまでしたね、神様から、お声がかかりましたよ、
薔薇のことなら、ご家族もおっしゃっていた通り、心配ありませんよ、
さ、一緒に行きましょうか、)

 男の顔を覆う黒いベールの奥から、天井の高い教会で語られるかの
ような響く声がする。
 呼びかけに応え、淡く、さやさやと、患者の顔からあの意識が離れ、
きらきらと光りながら黒い袋に吸い込まれていった。

(おつかれさま、)

 ともう一度声をかけ男は袋の口を丁寧にひもで結んだ。別珍の
漆黒の袋は、つやめいて美しかった。黒衣の人は顔をあげ、麻衣を見つめた。

(僕とあなたの仕事は、弁護士と検事のようなものでしょうか。)

しばしの沈黙と、答えの出ない麻衣を残して、男は右手を挙げ
マントで顔を覆い、ふと消えた。薔薇の残り香だけが病室に漂う。
死を避けようとする側なのだから、私が弁護士だろうか?いや、
検事か?あまりに無感情に死にゆく人を見つめる自分は、最近の
自分は---。麻衣は病室を出て、廊下に待つ家族に会釈し、看護婦が
告げる葬儀屋の来る時間を確認し、屋上へ出た。

2004/5/6

黒衣と白衣 その6  

 朝焼けが、東の空を虹色に染めていた。この町に、朝が始まろうと
している。新聞配達のバイクの音が聞こえる。フェンス越しにマンションの
屋上で体操している人と目が合い、麻衣は西の空の方へ移動した。まだ
こちらは暗い。給水タンクの陰に、そっとしゃがんでうずくまった。今さっきの
死が悲しい。
 悲しいのだけど、麻衣はそれ以上動かぬ自分の心に、何者なのだろう私は、
と思った。しばらく屋上でうずくまり、PHSで呼ばれ、地下に患者の家族と
上司や看護婦とともに降り、葬儀屋に運ばれていく患者の体を見送った。

「おまえどこにいたの?」

 病棟へ戻る帰り道上司に聞かれる。

「屋上、です...」

 そう小さな声で言うと、上司は黙ってぽんと肩を叩いた。

 ちょっと違うんです、とは言えず麻衣はうつむいて小さく礼をした。
上司は、今どんな気持ちで見送ったのだろう?ナース・ステーションですっと
パソコンの前に座り、今朝採血をした人達のデータをチェックする上司の背中を、
日常に戻り切れないまましばし見つめ、麻衣は立っていた。あんな夜の後に朝
だなんて、医者は、喪にふくす時間のない職業だと改めて思った。

 その後も、患者の亡くなる度に麻衣は黒衣の人と会うが、この人は
変わらなかった。いつもはらはらして救命を祈り、亡くなると泣き、
その患者の宗教に合わせたアイテムや小物を取り出して魂を慰め、
黒い袋に呼び寄せ、どこかへ消えて行った。思い詰めた表情で麻衣に
弁護士と検事の関係なのか?と問うようなことはもう、それ以来なかった。

 その後麻衣は4分割の最終章・冬を迎え、一番忙しい外科での
研修が始まった。マイペースの通用しない場面が必然的に増え、
一緒に働く人に迷惑をかけ、患者に間接的に時に直接的に迷惑をかけ、
徐々に居場所をなくしていった。外科なんて皆そんなもんだよという
真理子や真砂君の励ましは虚しく響いた。麻衣は、同期の中でも
人一倍迷惑をかけていると自覚していた。蓄積した疲れと寝不足と、
栄養の偏りが後押ししただろうか、麻衣は段々、死ぬことへの淡い
思いを自覚し始めた。こんな中で急死したら話題になってこの労働条件は
変わるんだろうなぁという頭の中の小さなブラックジョークからだった。
夜、机に伏せて寝ている時、屋上からふわっと飛び降りる自分が目に
浮かんだ。

2004/5/6

黒衣と白衣 その7  

 疲れ過ぎだ、と改めて思い、力なく笑った。それでも、誰でもそう
なんだからという言葉に手を引かれながら動いた。唯一のほっとする時間は、
患者の傍らにいる時間だった。淡く淡く、そこにいるのが精一杯の麻衣は
その日の手術が終わり、術後の採血をして検査室に提出し、夕暮れの空を
見に屋上へ上がった。何も死ぬ決心からでなく、ただ空を見たいだけ、と
自分に言いながら階段を昇り屋上に出た。

 西の空の夕日に、何故か涙がほろほろこぼれた。何ヶ月か前の、
泣けなかった日のことを思い出してさらに泣いた。今なら、あの
亡くなった方との別れがとても悲しいと思えた。麻衣は声を殺し、
空に向かって泣き続けた。

「僕には、どうすることもできませんよ、」

 ふいに声がして顔を上げると、黒衣の人だった。無意識に、この人を
心の中で呼んでしまっていたような気もする。不思議に今日はくっきりと
姿が見え、声も耳に届いた。オペ着のまま体育座りする麻衣の隣に腰掛け、
黒衣の人はまっすぐ、夕日を見た。

「あなたはまだ、自ら死ぬことも、過労死することもできません、
近くにありすぎて心が死に対して慣れてしまっても、そんなに簡単には
死ねないのですよ、」

 黒衣の人は諭すようにゆっくり生を宣告した。

(僕も、そうですが。)

と俯き、小さくこもった声が心に届く。

「この救急病院に勤め出してから、僕は19年経ちます。まだキャリアが
浅いんです。」

 死神が、病院ごとにいるとは麻衣も知らなかった。

「でも、僕が見えたのは、あなただけみたいです。よっぽど、
魂がもともと体から離れやすい体内に流れる時間ののんびりした
人にしか僕らは見えないし、救急病院にはまずそういう人は
いませんから」

「…」

 黒衣の人は続ける。

「---僕は、慣れないことに決めたんです。一回一回初めてみたいな
気持ちで立ち会うことに、決めたんです。ぎりぎりまで医者が救命する
方針の時は僕も魂を励まして頑張れ、頑張れ、もう一度息をするチャンスが
あるかもしれないと言い、ゆっくり看取る時には、静かに寄り添って何も
心配ないと最後の瞬間まで伝えることにしたんです。」

 黒衣の人は、きっぱりとそう言った。
それは、自分がやることを思えば、相当ハードなことと想像された。
ものすごく一生懸命な声援や、亡くなった後のたくさんの涙を思い返す。



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