2004/5/6

黒衣と白衣 その4  

 ERの天井の方、患者の足元側から、温かな、優しい視線を感じた。
どこか懐かしいような、泣いてもいいよ、と言っているような。
今度は何も見えなかったが、その視線は確かに家族に注がれていた。
おそらく、今亡くなったばかりの男性の、魂なのだろう。この感覚は、
前にも医学生の時に救急実習で同じ状況の中、感じたことがあった。
 それこそ、やりたいことをいっぱい残したこの方自身の視線なのだろう。

 そういえば黒衣の男は---と見るとその天井を見あげて微笑んでいた。
あなたの気持ちの済むまで、待ちますよという表情で。麻衣は背筋の
凍る思いで理解した。
 この男は---死神だ。

 そんなものを見てしまったとは誰にも言えず、麻衣は胸の奥にしまった。
そしてしばらく忘れていた。

 しかし、その後もドクターブルーが流れて例えば6階病棟に駈け付けても、
3階病棟に駈け付けても、黒衣の男はそこにいた。心臓マッサージを続ける人を
熱く見つめて応援していたり、おろおろ、はらはらした様子でまるで救命を
祈っているようだった。蘇生して助からないことも、確かに多い。けれども
院内心肺停止の患者が蘇生するのは、止まってすぐ救命活動が始まるので、
院外から運ばれて来る人よりも可能性があった。
 患者の心拍が再開すると、医師たちも、それから黒衣の男もわっと喜んだ。
いつのまにか、麻衣は黒衣の男と目を合わせてともに笑ってうなずき合ったり、
患者の死を無言で嘆き合う仲になった。

 内科研修中のある時、麻衣の担当する肝臓癌の末期で入院している患者の
意識が段々と落ちていった。患者の自宅に、麻衣の上司が連絡する。深夜の
静かな病院で、家族と過ごす最期の時間を麻衣と上司はナース・ステーション
で黙って心電図モニターとともに見守っていた。
 波形が変わり、ゆっくりになっていく。アラームがなるのを上司は止め、
麻衣に行くぞと言った。

 そっと病室の扉を開け、眠っているかのような患者に向かって、二人は
深く礼をした。家族も、涙ながらに礼を返した。
 看護婦達の、死後のケアが済み家族が呼ばれるまでの短い時間、
麻衣はどうしてももう一度患者に挨拶がしたくて、触れにいきたくてそっと
部屋に入った。入院時から患者は言葉を交わす元気はなかったけれど、
訪れるといつも微笑んでくれる、すてきな女性だった。

2004/5/6

黒衣と白衣 その3  

 時計を見て、リーダーが決断した。

「…家族を呼ぶからね。まわりきれいにしてね。心臓マッサージは、
全力はいらないからね。」

 リーダーの医師は冷静なまま、優しい声を皆にかけ、廊下で待つ
家族に説明をしにいった。ERに静けさが戻る。
 数年後にそんな説明をしなくてはいけないなどと思うと、麻衣は
失語症になるかのような緊張感を覚えた。自分の目の前で、今人が
亡くなった---何度経験しても、非日常的で現実とは思い難かった。

「あな…た」

 真っ赤な目を見開いて、この突然の夫の変わり様に入ってきた女性は
声が出なかった。

「お父さん、ねぇ。おとうさんしっかり、ねぇ!」

 女性はストレッチャーに手をかけて泣き崩れ、隣で若い娘さんと
思われる人が泣きながら彼女を支えた。
 リーダーはささやくように家族に状況を説明し、目で合図して、
麻衣と真砂君は静かに頭を離れ、男性のまわりでうつむく他の
医師達と混ざった。

「13時20分、御臨終です。」

 皆、深く頭を垂れた。わっと遺された家族は泣いた。ふと見ると、
涙もろいERの看護婦がその様子にもらい泣きしていた。麻衣は---、
泣けなかった。けれどもう一人泣いている気配がして、亡くなった患者の
足元の方向を見た。
 麻衣は---そこに見えたものに頭が透明になりそうだった。

 泣いていたのは、うっすらと見える黒衣の男だった。歳の頃は30くらい
だろうか。頭から足元までを覆う黒い服を着て、漆黒の髪、翳りのある黒い瞳、
淡い紅色の唇が顔を隠す薄いベールの下に見えた。黒い別珍の小さな袋を
左手に握り締め、ぽろぽろ涙をこぼして泣いていた。
 麻衣は口を半開きで男を見つめ、そっと周りを見たが誰も黒衣の男には
気づかぬ様子だった。どれくらい今見えているものを本気にしたらいいのか
わからないまま、

(かわいそうに、まだやりたいことをいっぱい残しながら、)

 と言う声を聞いていた。麻衣は、驚いた。と同時にがっくりした。
まずい。声まで聞こえる。と幻覚をのろった。やっぱり不似合いな場所で
適応力のないまま働くからこういうのが見えてしまうんだ...。麻衣はもう
見えぬよう、泣く男から視線をそらした。

2004/5/6

黒衣と白衣 その2  

 遠くから救急車の近づく音が聞こえはじめ、ER好きな同期の真砂(まさご)君
が率先してストレッチャーの来る扉を開き、「よっしゃ、こい!」と言った。
キャッチフレーズは間違ってなかった。ガラガラと救急隊がストレッチャーを
運び入れ、急に騒がしくなる。救急隊のひとりが良く通る声で報告した。

「患者59歳男性、スーパーでの急な意識消失、我々が到着するまで初期治療
なにもなされない状態だったそうです、えー脈なし、呼吸なし。
心臓マッサージと人工呼吸続けています。」

 ワラワラと患者のまわりを医師と看護婦が取り囲む。当番など予め
決めなくても、何となく誰かが何かをし、スムーズに必要な救命措置が
とられていく。麻衣も、剥き出しになった男性の冷たい左足の付け根に
採血のために針を刺す。脈を打っていないので、心肺停止した人の動脈が
見つけにくい。しかも同期の真理子のパワフルな心臓マッサージで男性は
体ごと揺れている。難関だったが、当たった。動脈らしい鮮やかさのない
血液で自信が持てなかったが、右足でも採血挑戦中のひとつ上の先輩に
「一応、動脈血かと...」と伝える。

「おぅ、でかした。機械かけて。」

 先輩はさっさと他のことを始めた。麻衣は動脈血を機械にかけ、ガス分析を
待つ。その間にベテランの看護婦達により点滴は男性の腕と足に入っていた。
必要な薬も決められた時間毎に投与されていく。

「け、血ガス出ました。O2 54、CO2 60---」

 麻衣は声を張り上げて、そこにいる人皆に伝えた。ひとつの仕事を
終えて、髪を振り乱している真理子に声をかけた。

「心臓マッサージ、かわるよ。」

 麻衣は真理子と交替し、男性の胸を押した。もう、肋骨が折れて
いるかと、思われた。何度味わっても、変わらぬ心苦しい感触。
口元を少し歪めて、麻衣は続けた。時計をみると、もう30分近く
経っている。
 男性の顔をみる。土気色で、目は遠くを見るように少しだけ開き、
口にはチューブが入って、つながるバッグを真砂君がしゅはー、
しゅはー、と押しつつ先輩達の指示はいずれ自分がするんだという目で
一生懸命周囲を見まわしていた。
 麻衣は、押すとへこむ胸が悲しくて、いったいどのくらいの力で
押すのが正しいのか、救命のゴールデンタイムを過ぎようとしている
この男性の目に問うた。---何も返ってこない。

2004/5/6

黒衣と白衣 その1  

 主人公は、麻衣(まい)といいます。マイペースだからです^^
動きは特別鈍くはないけれど、精神の動きは極めて遅く自覚のない
マイペースです。かなり私に似た、研修医です。でも、基本的に
フィクションです。「麻衣の物語」と思って読んで頂けたら、
幸いです。
 短編小説のように長くなってしまいましたが、ごゆっくりどうぞ^^

         +  ・  +  ・  +

 精神的な動きが時速5cmくらいの研修医麻衣は、救急病院にいて
とても浮いていた。が、自ら希望し熱意で採用された病院でそれなりに
頑張っていた。まだ医師になって半年だったが、そんなひよこである
ことも忘れて働いていた。
 あんなに細かく見えていた季節も、今は春夏秋冬の4分割。
時間の流れがとても早く感じる。

 ある日、麻衣が病棟にいると緊急放送が流れた。

「ドクターブルー、救急外来。ドクターブルー、救急外来。」

 ドクターブルーというのは心肺停止患者到来の合図。
患者を驚かせないその秘密の言葉の意味を知る院内の医者が放送とともに
一気に駈け付ける。正直圧巻である。
 麻衣が着いたときには、ERに医師は溢れていた。皆うっすら
興奮している。青ざめているような人は---いなかった。
患者はこれから到着らしかった。その場の一番適した人が救命の
リーダーになり、ER勤務中の医師から情報を得ててきぱき指示を出す。

「えー50代男性、スーパーでの急な意識消失ね。来たらバイタルとって
モニターもつけて、原因は頭かな、心臓かな---血ガス・採血採って点滴入れて
胸と腹写真撮って、1年生心臓マッサージ救急隊から引き継いでね。
あとは必要なら挿管してバッグで換気だね。よし、」

 首を回したり指を鳴らしたり、これから何をするつもりなのか準備運動を
している人もいる!麻衣はいくぶん魂が離脱しているのを時々はっと戻し
ながら患者を待った。
 このときの空気は、『生死をさまよっている人が来る!』という緊迫感とは
ちょっと違う。どちらかというとキャッチフレーズは『よっしゃこい!』だ。
ちなみに麻衣のキャッチフレーズは『・・・』だ。なぜって、目の前に
死にかけた人が来るという事実をオロオロしないで事にあたるには、感情を
フリーズさせるのが一番速かった。もうすぐ来る患者を前に、場の空気を
乱さず力を合わせなければならない。

2004/5/2

天使のchest pain 2  

「さ、裏から入ろう、」
医者はこんなはじめての症例にわくわくしていた。
一体どんな心電図波形が?どんな胸部レントゲン写真が?
たまらない。
「さささ、急ごう」
うずくまりかける天使をえいやとお姫様抱っこして医者は
誰もいない廊下をひたひた走った。天使は---とても軽かった。
「さ、ここで心電図を、」
眼科外来に心電図モニターを運んで白磁のようななめらかな胸に
電極をつけた。
「動かないでね、」
血走った目で、医師はモニターから吐き出される波形を見た。
「なんだこれは・・・ラテン語だ」
天使は痛みをこらえて自分で波形を見た。
「汝の身 すべて 神に ゆだねYa!とあります...
ああ、やっぱり私の発音が悪かったのだ、おお神よ許したまえ」
反省をし涙を流す天使にはあまり興味のないまま、血圧計を腕に
巻く。耳を研ぎ澄ませても、音がしない。だめだ。天使の心臓は
脈打つ物じゃないんだ。カテーテルで冠動脈を広げるどころの
問題じゃないな。
 医者は天使をレントゲン室へ連れて行った。ああいったいどんな
形の心臓が写る?血管系が写る?
「その白い四角に胸を当てて、そう羽は邪魔だからね大きく
広げてね」
胸の痛みに立っているのがやっとだったが、天使は怒りなど
知らなかった。翼を広げた美しいシルエットに一瞬医者は我を忘れ
かけたが、何とか人間の胸部写真用のエックス線量で一枚撮影した。
ガシャという撮影の音まで聞いて、天使は崩れるように下に倒れた。

 医者は、そこでようやく目覚めた。ようやく。
「だ、大丈夫?」
蒼白な整った顔に、美しい碧眼。大粒の涙がこぼれる。
「痛い---です。
 汝の身 すべて 神に ゆだねYa! ああ、また...
 汝の身 すべて 神に ゆだねYu! だ、だめだ...」
医者は、黙って倒れている天使を助けおこし、肩を抱いた。
「私も、祈ろう。その不整脈、治るよう祈ろう。
 汝の身 すべて 神に ゆだねYu! もうちょっと口を開けて、
 汝の身 すべて 神に ゆだねYo! そう!もう一度!
 汝の身 すべて 神に ゆだねYo! そうだ!」
「ああ、胸の痛みが取れた、とてもとても楽になった---」
二人は見つめ合って、微笑んだ。

「ドクター、お蔭で不整脈が治りました。ありがとう。
お礼に---」
微笑みの天使に招かれるまま、医者はその真珠色の大きな翼の
中に入った。あたたかな翼の中で、いろいろを思い出す。

■2004/05/02 (日) 天使のchest pain 3

 転んで貼ってもらった絆創膏、痛いの痛いの飛んでいけーが
効いたわという母の笑み、川で転んだ妹を病院までおぶったこと、
初めて女性の前で涙を流して額に受けたキス、そして、胸の痛みを
訴えて突然亡くなった大好きな祖母。

「もう、十分です。ありがとう。」

天使はふわっと翼を広げ、たたみ、微笑んだ。
「神様が、もしお望みならもうひとつ能力を授けましょうと
仰っています、」
医者は真顔になって答えた。
「---誤診しない能力かな、」
天使はにっこり笑んで天を仰ぎ、熱心に神に祈り、そして右の翼の
羽根を一枚抜いて医者に渡した。
「これで、能力は高まることでしょう。完全なものではありませんが、
あなたの役に立つことと思います。」
「ありがとう。」
天使は軽く片手を挙げ、ふわっと宙に消えた。 

 天使にもらった「誤診しない能力の上がる羽根」を持ち歩いて
以来、医者は勉強せずにはいられない性格になった。これまでは
ひまをつくっては夜の街へ繰り出していたが、そんなことより勉強、
と思うようになった。

 ちなみに、翌朝レントゲン室に残っていた羽根がうっすら胸郭の
そばに写る不思議な写真は病院中のうわさとなった。人間の場合真ん中
に洋ナシ型にある心臓は、その写真では美しいハート型で中に十字架の
繊細な彫り物がされて宙に浮いてみえる。肋骨や脊柱骨はあるが、
肩甲骨はない。ともかく、こんなのはありえない、不思議系の芸術家が
ジョークで置いて行ったというのが結論となった。医者は何も言わなかった。

 当の医者は、(ものすごくエキサイティングな胸痛患者だったが、
反省させられたな...)と素直に思った。患者を--大事に。痛みに、敏感に。
ああ、勉強をしなくては。

 *おしまいです*

 おやすみなさい^^



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