(無題)  

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2004/5/6

黒衣と白衣 その8  

 ふと、黒衣の人が何か思いついたように小さく手を鳴らした。

「あなたに、この魂をお見せしましょう。あなたなら、きっと
見えることでしょう。」

 黒衣の人はベールの奥で微笑んで、今さっき亡くなったという
方の魂を例の別珍の袋から取り出す。右手でそっと掬って掌に乗せ、
麻衣に見せた。魂は、見えるというより感じるというような感触で、
確かにそこに在るようだった。その存在感は、澄んでいてきれいだった。

「魂は亡くなる時、誰もがこんなふうにきれいなんです。どんな
人生を何年送ってきた人でも、同じです。こんなふうに、淡く細かに
虹色に光を放って、僕は扱ったことがないけれど、生まれたての時と
同じ輝きなんだそうです。」

 辺りが暗くなってきたからだろうか、麻衣にも段々にその光が
見えてきた。やわらかく、そう確かに、生まれたての赤ちゃんが
放つ乳白色の光が見えた。黒衣の人によると、この方は96歳の
男性なのだそうだ。麻衣は魂に向かって礼をした。

「捨てたもんじゃないでしょ、捨てちゃいけませんよ」

 ベールの奥で、笑う。

「魂はいつどんなふうに死んでもこうなんだと思ったら、あなたも、
よっぽどの危害を加えるのじゃなければ、死にたいほど思い詰める
ことはないんじゃないでしょうか。あなたも、こうして亡くなった
方も、同じ魂をお持ちなんですから。」

麻衣はもう一度、96歳まで生きた尊い魂に礼をした。

「捨てません。自分も、患者さんも。」

 麻衣は決意を込めて言った。
黒衣の人はよかった、というように笑み、魂を大事そうに袋に戻した。
帰り支度をする黒衣の人に、麻衣は尋ねた。

「あなたの---お名前は?」

 黒衣の人は、

「また、魂の御前でお逢いしましょう。」

 と言ってにこやかに微笑み、右手を掲げてふわりと顔を隠し、
いつのまにか星の出ていた空に、溶けるように消えた。

 魂はきっとこれから死神とともに三途の川を越え、美しい花の咲く野に
放たれ、きらきら光るのだろうな...天国も地獄も隔てはなく、あの美しい
光がそこここに満ちているのだろう。麻衣は想像した。

 そして死神の名は---
今度、きちんと患者の死に全力で心を注げたらもう一度、聞こう。

 ---星の光る空を見ながら麻衣は両手を広げ、目を閉じてゆっくり、
大きな深呼吸をした。

2004/5/6

黒衣と白衣 その7  

 疲れ過ぎだ、と改めて思い、力なく笑った。それでも、誰でもそう
なんだからという言葉に手を引かれながら動いた。唯一のほっとする時間は、
患者の傍らにいる時間だった。淡く淡く、そこにいるのが精一杯の麻衣は
その日の手術が終わり、術後の採血をして検査室に提出し、夕暮れの空を
見に屋上へ上がった。何も死ぬ決心からでなく、ただ空を見たいだけ、と
自分に言いながら階段を昇り屋上に出た。

 西の空の夕日に、何故か涙がほろほろこぼれた。何ヶ月か前の、
泣けなかった日のことを思い出してさらに泣いた。今なら、あの
亡くなった方との別れがとても悲しいと思えた。麻衣は声を殺し、
空に向かって泣き続けた。

「僕には、どうすることもできませんよ、」

 ふいに声がして顔を上げると、黒衣の人だった。無意識に、この人を
心の中で呼んでしまっていたような気もする。不思議に今日はくっきりと
姿が見え、声も耳に届いた。オペ着のまま体育座りする麻衣の隣に腰掛け、
黒衣の人はまっすぐ、夕日を見た。

「あなたはまだ、自ら死ぬことも、過労死することもできません、
近くにありすぎて心が死に対して慣れてしまっても、そんなに簡単には
死ねないのですよ、」

 黒衣の人は諭すようにゆっくり生を宣告した。

(僕も、そうですが。)

と俯き、小さくこもった声が心に届く。

「この救急病院に勤め出してから、僕は19年経ちます。まだキャリアが
浅いんです。」

 死神が、病院ごとにいるとは麻衣も知らなかった。

「でも、僕が見えたのは、あなただけみたいです。よっぽど、
魂がもともと体から離れやすい体内に流れる時間ののんびりした
人にしか僕らは見えないし、救急病院にはまずそういう人は
いませんから」

「…」

 黒衣の人は続ける。

「---僕は、慣れないことに決めたんです。一回一回初めてみたいな
気持ちで立ち会うことに、決めたんです。ぎりぎりまで医者が救命する
方針の時は僕も魂を励まして頑張れ、頑張れ、もう一度息をするチャンスが
あるかもしれないと言い、ゆっくり看取る時には、静かに寄り添って何も
心配ないと最後の瞬間まで伝えることにしたんです。」

 黒衣の人は、きっぱりとそう言った。
それは、自分がやることを思えば、相当ハードなことと想像された。
ものすごく一生懸命な声援や、亡くなった後のたくさんの涙を思い返す。

2004/5/6

黒衣と白衣 その6  

 朝焼けが、東の空を虹色に染めていた。この町に、朝が始まろうと
している。新聞配達のバイクの音が聞こえる。フェンス越しにマンションの
屋上で体操している人と目が合い、麻衣は西の空の方へ移動した。まだ
こちらは暗い。給水タンクの陰に、そっとしゃがんでうずくまった。今さっきの
死が悲しい。
 悲しいのだけど、麻衣はそれ以上動かぬ自分の心に、何者なのだろう私は、
と思った。しばらく屋上でうずくまり、PHSで呼ばれ、地下に患者の家族と
上司や看護婦とともに降り、葬儀屋に運ばれていく患者の体を見送った。

「おまえどこにいたの?」

 病棟へ戻る帰り道上司に聞かれる。

「屋上、です...」

 そう小さな声で言うと、上司は黙ってぽんと肩を叩いた。

 ちょっと違うんです、とは言えず麻衣はうつむいて小さく礼をした。
上司は、今どんな気持ちで見送ったのだろう?ナース・ステーションですっと
パソコンの前に座り、今朝採血をした人達のデータをチェックする上司の背中を、
日常に戻り切れないまましばし見つめ、麻衣は立っていた。あんな夜の後に朝
だなんて、医者は、喪にふくす時間のない職業だと改めて思った。

 その後も、患者の亡くなる度に麻衣は黒衣の人と会うが、この人は
変わらなかった。いつもはらはらして救命を祈り、亡くなると泣き、
その患者の宗教に合わせたアイテムや小物を取り出して魂を慰め、
黒い袋に呼び寄せ、どこかへ消えて行った。思い詰めた表情で麻衣に
弁護士と検事の関係なのか?と問うようなことはもう、それ以来なかった。

 その後麻衣は4分割の最終章・冬を迎え、一番忙しい外科での
研修が始まった。マイペースの通用しない場面が必然的に増え、
一緒に働く人に迷惑をかけ、患者に間接的に時に直接的に迷惑をかけ、
徐々に居場所をなくしていった。外科なんて皆そんなもんだよという
真理子や真砂君の励ましは虚しく響いた。麻衣は、同期の中でも
人一倍迷惑をかけていると自覚していた。蓄積した疲れと寝不足と、
栄養の偏りが後押ししただろうか、麻衣は段々、死ぬことへの淡い
思いを自覚し始めた。こんな中で急死したら話題になってこの労働条件は
変わるんだろうなぁという頭の中の小さなブラックジョークからだった。
夜、机に伏せて寝ている時、屋上からふわっと飛び降りる自分が目に
浮かんだ。

2004/5/6

黒衣と白衣 その5  

 もう確かにこの方は亡くなっている。けれど本当についさっきまで
呼吸をしていたという気配が部屋に漂っていた。亡くなった人の部屋は
いつもそうだ。患者の顔のあたりに、ふわふわとやわらかな意識を感じる。
まだ、眠る様に魂は宿っているのだろう。ね、と心の中で話しかけたら、
うっすらと黒衣の男がベッドの向かいに現れ、涙目でうなずいた。
黒い袋の口を握る左手に、今日は十字架のついたロザリオを巻いている。

(この方、クリスチャンなんです。そして薔薇が、好きな方で---
自宅のローズガーデンをずっと、気にかけていらした)

と、求めずとも独り言のように語り、男は静かに、右手からはらはらと
淡い紅の薔薇の花びらを降らせ、患者のまわりに落とした。患者の顔は
変わらず安らかだったがその上の気配が少し、明るくなる。男はそれを
見て少し微笑み、両手を組んで祈った。そこではっと思い出したように
麻衣を見た。じっと見つめてしばらく考えた後、

(僕の仕事を見て行きますか、)

と聞いた。麻衣は、頷いた。
 男は枕元にひざまずき、静かに頭を垂れた。右手が、左の黒い袋の
口ひもをすっと解く。男の口から零れたのは、難解な呪文ではなかった。
静かで素朴な、労いの言葉だった。

(長い間、おつかれさまでしたね、神様から、お声がかかりましたよ、
薔薇のことなら、ご家族もおっしゃっていた通り、心配ありませんよ、
さ、一緒に行きましょうか、)

 男の顔を覆う黒いベールの奥から、天井の高い教会で語られるかの
ような響く声がする。
 呼びかけに応え、淡く、さやさやと、患者の顔からあの意識が離れ、
きらきらと光りながら黒い袋に吸い込まれていった。

(おつかれさま、)

 ともう一度声をかけ男は袋の口を丁寧にひもで結んだ。別珍の
漆黒の袋は、つやめいて美しかった。黒衣の人は顔をあげ、麻衣を見つめた。

(僕とあなたの仕事は、弁護士と検事のようなものでしょうか。)

しばしの沈黙と、答えの出ない麻衣を残して、男は右手を挙げ
マントで顔を覆い、ふと消えた。薔薇の残り香だけが病室に漂う。
死を避けようとする側なのだから、私が弁護士だろうか?いや、
検事か?あまりに無感情に死にゆく人を見つめる自分は、最近の
自分は---。麻衣は病室を出て、廊下に待つ家族に会釈し、看護婦が
告げる葬儀屋の来る時間を確認し、屋上へ出た。



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