2004/5/6

黒衣と白衣 その5  

 もう確かにこの方は亡くなっている。けれど本当についさっきまで
呼吸をしていたという気配が部屋に漂っていた。亡くなった人の部屋は
いつもそうだ。患者の顔のあたりに、ふわふわとやわらかな意識を感じる。
まだ、眠る様に魂は宿っているのだろう。ね、と心の中で話しかけたら、
うっすらと黒衣の男がベッドの向かいに現れ、涙目でうなずいた。
黒い袋の口を握る左手に、今日は十字架のついたロザリオを巻いている。

(この方、クリスチャンなんです。そして薔薇が、好きな方で---
自宅のローズガーデンをずっと、気にかけていらした)

と、求めずとも独り言のように語り、男は静かに、右手からはらはらと
淡い紅の薔薇の花びらを降らせ、患者のまわりに落とした。患者の顔は
変わらず安らかだったがその上の気配が少し、明るくなる。男はそれを
見て少し微笑み、両手を組んで祈った。そこではっと思い出したように
麻衣を見た。じっと見つめてしばらく考えた後、

(僕の仕事を見て行きますか、)

と聞いた。麻衣は、頷いた。
 男は枕元にひざまずき、静かに頭を垂れた。右手が、左の黒い袋の
口ひもをすっと解く。男の口から零れたのは、難解な呪文ではなかった。
静かで素朴な、労いの言葉だった。

(長い間、おつかれさまでしたね、神様から、お声がかかりましたよ、
薔薇のことなら、ご家族もおっしゃっていた通り、心配ありませんよ、
さ、一緒に行きましょうか、)

 男の顔を覆う黒いベールの奥から、天井の高い教会で語られるかの
ような響く声がする。
 呼びかけに応え、淡く、さやさやと、患者の顔からあの意識が離れ、
きらきらと光りながら黒い袋に吸い込まれていった。

(おつかれさま、)

 ともう一度声をかけ男は袋の口を丁寧にひもで結んだ。別珍の
漆黒の袋は、つやめいて美しかった。黒衣の人は顔をあげ、麻衣を見つめた。

(僕とあなたの仕事は、弁護士と検事のようなものでしょうか。)

しばしの沈黙と、答えの出ない麻衣を残して、男は右手を挙げ
マントで顔を覆い、ふと消えた。薔薇の残り香だけが病室に漂う。
死を避けようとする側なのだから、私が弁護士だろうか?いや、
検事か?あまりに無感情に死にゆく人を見つめる自分は、最近の
自分は---。麻衣は病室を出て、廊下に待つ家族に会釈し、看護婦が
告げる葬儀屋の来る時間を確認し、屋上へ出た。



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