生け花的要素について
Nils-Udo 「PLANET」2008
去年の暮れのも1月9日の再放送も見そびれた番組で紹介されていた
ニルスウドの作品を見ると、野外生け花みたいだなって印象も受けたりします。
生け花と言ってなんでしたら、野外フラワーアレンジメント。
実際、フラワーアレンジメントの分野では、花を球形にまとめるのって結構ありがち。
Nils-Udo-2つの季節-より 1986
ただ、日本の作品で野外の生け花って言うと、やっぱり大きな作品ばかりが紹介されていたり(
草月流がいち早く
David Nashを招いてワークショップを開いたりとか)で、
ニルスウドのミニマリズム的アプローチで環境と一体になっている作品みたいなのって他の人の作品には少ない気がしますね。
一輪挿しの深淵と豊饒を知り尽くしてるお国柄なのにねぇ。
Nils-Udo「 Nest」 2005
Nest: 30m×40m×20mH Five Eggs: 3m×2mH
そんなニルスウドも、時たま何だかとてつもなく
デカイ作品を創っちゃったりしてますが。
作品がでかくなるほど、ピラミッドなんかのモニュメンタルな人工物に近づいて対自然の要素が大きくなってしまう。
そんな作品を目にするたびに、ヨーロッパの人なんだなぁって、そう、長いこと「人間と自然」と言う二元論的対立に馴染んできた風土から生まれた作品って気がしてしまう。
美術館のイベントとかテレビとかって言うと、どうしてもスタティックな構造物の方が押しが強いってのはわかるんだけどねぇ......。
自然は追いつめられて
最後の隠れ家の中で
静かに息を殺している。
封印された〈詩〉が
いたるところに見出される。
私はその〈詩〉を
解き放してやるだけなのだ。
ユートピアの存在を
愚かしいまでに信じて。
〈詩〉は世俗的で
非人間的な時代の流れに
静かに立ち向かっている。
nils udo
彼自身、時々彼のこの言葉を忘れちゃったりするんじゃないかって思ったりもするんだよね。
なんと言うかね、あんまり造り込んだのをどこかから持ってきて据え付けるのって、森の中での出会いが感じられないって気がするんですよ。
これなんか、ホントに凄いと思うんだ。
林の中を散歩していて、木々の佇まいや散りかかる野の花、降り積もる落ち葉に何かを感じて、そこからふと作品が生まれる。
たまたまその季節のその時間にそこに居合わせなければ生まれ得ない、そんな作品の方がネイチャーアートっていう呼び名にふさわしいと、僕は思ってしまう。
Nils-Udo「シルト島」 1986
白樺の枝、シダの葉、松葉、ハマナスの花びら
あぁ、ハマナスの咲く浜辺を彷徨って、こんな幻想に浸るのも悪くないよね。
さて、そんなことを夢想しながら散歩していると、冬の日の道ばたには意外に美しい素材が息づいているものだ。
ってなわけで、またぞろ悪戯心が頭をもたげる。
そう、いかにして野外生け花にならないようにするかってなことでね。
A(^_^;