
実を言うと、土曜日の午後、再びお台場に向かったのだった。
そう、もう一度見たかったって言うのもあるんだけれど、それ以上に小説の「ashes and snow」の全貌が知りたくなって、矢も盾もたまらない状態になってしまったのだった。

が、予想を遙かに超えたあまりの混雑に、ashes and snowの小説だけ買って、渚で日暮れまで過ごすことにしたのだった。
そう、向こう側の、建物の遙か後方まで続く行列はチケットを買う列。
手前は、会場に入るために並んでいる列。

すべての列をスルーして、ミュージアムショップのカウンターに直行。
「小説はありますか?」
「えぇ」
ホッとした。
いや、きっと、手に入れて読んでみたら、多少なりともガッカリするのではないかという予感はあったけれど、良いのだ。
その辺も含めて、確認したかったのだから。
原文の方も考えたけれど、そこまで語学力に自信がない。
そんな自分を、今呪ってみても始まらないしね。
誰の言葉だったか、「翻訳した作品を読むのは、たとえば豪奢なゴブラン織りを裏側から眺めるようなものだ」ってのを、今回はことさらに強く感じていたのだよね。
それでもまぁ、素材の手触りぐらいはわかるだろうからね。
それにしても、なぜそこまで訳本に期待をしなかったか?
いや、翻訳に不満があるのではなかった、きっと、装丁のどこかに不満を感じるんだろうなぁってな予感があったんだよね。
なぜって、会場で上映されていた「灰と雪」のナレーションが日本人の吹き替えになっていて、それがまた安っぽい感情移入を恥ずかしげも無くやっていて、耳障りだったりしたからなのだ。
この詩は、絶対に囁き声で淡々と読まれなければいけないはずだ。
なんでこんなのでOKが出たのか?
.....その他のことは推して知るべし。